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2022年1月10日 (月)

冷凍庫の在庫管理

2023.5.6 更新

【食用】

・ヒラメ切身          4枚×2

・キンメ煮つけ         2

・キンメ開き          3

・アブラボウズ切身       20

・アブラボウズ胃袋       2

・マゾイ煮つけ         4

・バラメヌケ半割兜       2

・ホンビノス          クラムチャウダー3回分

 

赤字は残りわずか


【エサ用】

・サンマ(マダラ釣り用)     1回分

・生ホタテハーフ(ハゼ用)    7粒

・イカタン(ベニアコウ用)    1回分

・イカタン紅色          20本

・イカタン(イナンバ用)     1回分

・赤イカタン(アジ用)      1回分

・塩辛(ハナダイアジ用)     少し

・スルメイカ           鈴栄丸用3

・イクラ(カジカ用)       1回分

・ソーダガツオ短冊        30本

【その他】

・氷(1000ペットボトル)      1

・氷(500ペットボトル)       1

・氷(250ペットボトル)       1

 

 

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カズチー、スペアリブ、アブラボウズ煮つけ、タケノコサラダ、海苔巻き
クラムチャウダー、ペンネ、生ハムサラダ、クロワッサン、パンの樹

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4月23日。かすかな記憶。色々一変。「いやだ」「帰りたくない」でも帰してしまった。5月15日。まだ自分の中で整理つかず。何を求めているのか、何をしたらいいのか、何が正解か。このままの状態が正解か。一度二人で会うべき?多分何もしなくても会うことになるだろう。多分いつかは前進してしまうだろう。自分に正直なので、23日のことは本音だろう。色々な「もしかしたら」が現実に。残りはわずか。もうなるようになるしかない?本音を直接聞くのは怖い。よりによって相手が悪すぎ。何が正解だろう?僕が鈍感だっただけ?理想の自分になれる薬。5月22日。整理はつかず。ふとした事に正解を考える自分が。できるだけ考えないように。6月2日。昨日フライング。後悔、失敗?でも様子がおかしい。未だに理解できず、整理つかず。7月23日。10日前に2人で飲む約束。お世話になったのでご馳走させてほしい。「お酒飲めるところでね」気を使ってくれている?もう首を振ることは許されない。8月6日。まだ留まっている。色々想いを話したっぽい。単純な強がりかも。下の名前で呼んだらしい。屋形船が楽しみというline。モヤモヤってなんだろう。8月30日。面倒くさい状況に溺れてる。

2023年1月13日 (金)

シーブリーム

タイトル  :  シーブリーム
          

名前  :  尾崎 大祐 ( オザキ ダイスケ )
性別  :  男
職業  : 会社員 (株式会社中村屋勤務)
年齢  : 四十九歳
略歴  : 1973年埼玉県生まれ
       1997年北里大学(獣医学部)卒業
         2020年週刊つりニュースウェブ版(TSURINEWS)ライター活動始める
         受賞歴はなし(全ての小説新人賞に対し、初めての応募となります)
枚数  : 四百字詰め原稿用紙換算枚数は253枚

【あらすじ】
小説は九章+番外編で構成。「殺し屋」が主人公。「シーブリーム」とは英語でタイ。
主人公が三か月の眠りから覚める所から始まる。この時、主人公は記憶喪失。鮎川三久という謎の女性との夫婦生活が始まり、主人公(ここでは鮎川春)は、次第に三久に惹かれていく。二週間後、記憶は蘇り、自分が殺し屋・藁科大希であることを思い出すと同時に、本当の家族の元へ帰る。ただし、三久(実は大希の不倫相手?)の罠にはまり、ここからは抜け出せなかった。(番外編にて踏み込んだ説明)
二、三章は、時が一章の半年前に遡り、殺し屋としての藁科大希が活躍する。釣り仲間である重盛(エモリ)が違法薬物を使って人体実験をしていることが、ここで発覚する。
四章では、更に時が遡り、大希の幼少期から殺し屋になるまでを描いている。主な内容は、母親を知らずに育ったこと、十歳で幼馴染を守るため、はじめて人を殺してしまったこと、先端恐怖症である理由、二十四歳にて片思いの女性(ルカ)を守るために再び人を殺し、この一ヶ月後に父親(ジン)が失踪してしまったこと、等。
五章では鮎川三久(当時は飯島菜々美)との出会いのシーンとともに、そろそろ殺し屋を辞めたいと思い始める、大希の心境を描いている。
六章では、大学時代の親友・矢田を助ける話が中心。銀次という、都市伝説と思われていたハッカー(政治家含め、悪いヤツの銀行口座を空にしてしまう)の実在が、ここでほぼ明らかになる。後半、釣り船にて重盛の暗殺計画を、同じ殺し屋仲間でかつ親友の酒井の協力を得て実行するが、逆に殺されかけ、記憶喪失となる。しかし、これは全て、大希の仲介者・山元の思惑通り。
七、八、九章は宿敵・仲介者重盛を暗殺するシーンを、三久目線、大希の父・ジン目線、そして殺し屋仲間の酒井目線で、それぞれ描いている。三久は酒井が重盛を殺したと思っているが、実はジンが実行している。酒井目線では、ジンは十九年前に死んだとされた「伝説の殺し屋」であることが明かされる。また、ジンは失踪直後、大希の母と正式に結婚したことが明かされ、ハッカー銀次は、大希の母であることもここでほのめかされる。
殺し屋の説明(二章)にて、「依頼者―仲介者―殺し屋」の流れで仕事(殺し)は実行されると大希の説明にあるが、この小説では「依頼者」は存在しない。金儲け主義で、大希の存在が邪魔な仲介者・重盛と、それ許さない、「法で裁くことができない悪いヤツを懲らしめる」ことをヨシとする仲介者・山元の戦いが、この小説の軸となっている。そして腕利き殺し屋・藁科大希を要する天才仲介者・山元のプラン通りに展開していき、最終的に山元が勝つ(重盛は死ぬ)。しかし、鮎川三久(飯島菜々美)の存在は、山元にとって想定外であった。
また、番外編では、大希がサラリーマン(表の顔)を辞めて小料理屋を開店させ、そこで大希とミクと幼馴染(夕子)三人の「居酒屋トーク」にて、本編では謎のままであった一部が明らかになる。
 第一章  仮初の夫婦


深い霧に包まれた森。樹々が鬱蒼と生い茂り、根は土の中に張ることが許されないのか、地面にむき出しになっている。少しでも気を許せば躓いてしまいそうだが、俺は走り続けるしかない。
「追いつかれる」
白い服を纏った女は、逃げる俺との距離を徐々に詰めてくる。
 
白い壁には、薄いグレーで描かれた、いくつもの花。その横には吊り下げ式の天井照明。壁、ではなかった。
俺はベッドに横たわり、天井を見ていた。
「おはよう」
女が泣いている。
「では、私はこれで」
白衣を着た、黒縁眼鏡の男が部屋を出ていった。女は涙をぬぐっているが、頬が緩んでいるように見える。
黒い髪は肩まであり、肌は雪のように白い。どこかで見たことがある、ような気がする。
「あなたは何者なの?」
この女は何を言っているのだろう。「あんたこそ誰?」と言いかけたが、途中で酷い頭痛に襲われてしまう。
「本当に記憶はないの?」
「『本当に』とはどういうこと?」
「ヤマモト先生がそう仰っていました」
「……」
「詳しいことは追い追い話すわ」
不安そうに、そして不思議そうに俺を見つめていた女の存在は、もう過去の姿。
「本当に生きていたのね。魚になっちゃったのかと思った」
「魚?」
頭の中モヤモヤだらけだ。俺はまだ夢を見続けているのだろう。

三ヵ月前、俺は海岸で倒れている所を、山元という医者に発見され、ここに運ばれたらしい。「らしい」……そう、俺の記憶は、風に吹かれた煙のように消えていた。俺の身に何が起こったのか、そもそも俺の名前は。
「これ、持ってて」
「免許証?鮎川春?」
「そう、ハル。いい名前ね」
「……。あんたの名前は?」
「ミク、だって。よろしくね」
幸い、言葉、腹が減ったら飯を食う、用を足したくなったらトイレへ行く、といった、「生きていく上で出需なこと」は覚えている。「修羅場を抱えている人間なら、むしろ都合のいい状況なのかもしれない」と、思ったが、意外と当たっている予感がしてならない。
そして目の前にいる女……まるで俺が記憶喪失であることを、当たり前であるかのように振る舞っている。眠りから目覚めた時、確かに「本当に記憶はないの?」と言っていた。あの時、意識は朦朧としていたが、そこはしっかり覚えている。
不自然なことだらけの中、最大の疑問一つ。なぜ匿う?普通に考えれば、まずは警察に連れて行くのではないだろうか?いや、警察はマズい。ん、何故まずい?「よろしくね」とは。
何がどうなっているのか。あえて言うなら、今の状況は、アメリカの捕鯨船に、無人島で死にそうになっている所を助けられたジョン万次郎。今、危険に晒されている訳ではなさそうだが、故郷に帰る術は今のところない。今はまず、アメリカ本土を目指しつつ、帰国のチャンスを伺うしかない。

あれから一週間が経とうとしていた。俺は鮎川春。そして目の前に座っている女はミク。鮎川三久。俺とミクは夫婦、ということらしい。少なくとも免許証があるし、一週間前に初めて会った気も、なんとなくしない。何より、俺が紅茶よりもコーヒー派であること、パセリが嫌いなこと、そして脇腹限定の「くすぐったがりや」であることを知っていた。「これはほぼ間違いない」という材料は揃っている。
ミクという女、いや、妻は病院の総務課で働いている。山元という、黒縁眼鏡の医者は、その病院の院長。ミクの上司、ということになる。俺はというと、説明するまでもなく無職。残念ながら、今は「ヒモ男」と呼ばれても仕方がない状態だ。不思議と掃除や洗濯といった家事は、鳥が空を飛べることと同じように、本能的に体が覚えていて、テキパキこなせる自信がある。が、何分体が言うことを聞かない。俺は三ヶ月もの間、夢の中で樹海を彷徨っていた。
「ただいま」
「おかえり」
一週間前は違和感だらけだったこのやり取り、今では他愛もない「ヒモ男と養う女」の会話だ。まあ、「ヒモ男」は別として、何だっけ。「仮初の家族」とかいうアニメが、雰囲気だけかすっているような気がする。奥さんが殺し屋で……。
まただ。何かを思い出そうとするたびに酷い頭痛に襲われる。これが記憶喪失というものなのだろうか。「今は無理に何かを思い出そうとするな」という警告と理解しよう。幸い、ミクが傍に居てくれるおかげで、たまに襲われる頭痛以外、全てが心地よい。時々、過去の記憶を忘れてしまっていることを、忘れてしまいそうな自分がいる。

「体はどう?だいぶ動けるようになったみたいだけど。明日気晴らしに、ドライブにでも行ってみない?」
溢れんばかりの天使の笑顔で誘われてしまっては、男は為す術なし!
ちょっと暖かくなり始めた二月最後の週末、ミクの運転でドライブに出かける。いかにも女性が好みそうな、可愛いらしい軽自動車の助手席は、思いのほか広くて快適だった。そして走り出して十分ちょい、街中の景色は、海と山、時々温泉街に変わった。
左側に見える海が美しい。沖に見える、海鳥のような白い点々は釣り船だろうか。あんな所で何が釣れるのだろう?
「!?」
また頭痛。
「どうしたの?」
「海を眺めていたら、何か思い出せそうで」
「顔が辛そうだよ」
「ちょっと頭痛が」
「じゃ、海を見ちゃだめ」
まるで海に嫉妬しているような言い回しがが妙に可愛らしい。ここはミクの命令に従って、左手に広がる海を眺めるのをやめた。代わりに正面やや右寄りに視線を移すことにした。
そういえば、ミクって歳はいくつだろう。あえて俺から聞くような馬鹿な真似はしないが、「私って、いくつに見える?」って聞かれた時は「三十代前半」って答えれば、喜んでもらえると踏んでいるのだけど、「二十代」って答えたら「それ嫌味?」って、返ってきそう。でも、実際そう見えなくもない。小さい目と薄いそばかす。これ以外は完璧。いや、これを含めて美人だ。笑うと「ただの線」にしか見えない目は、本人曰はく、二重らしい。が、残念ながらよくわからない。それについてからかうと、「ハルに言われたくない」が、ここ数日の、「俺に対するお決まりの突っ込み」となっている。
ミクは両手でハンドルを握って、真剣な面持ちで運転している。気づけばカーブやトンネルが増えてきた。「今はあまり話しかけないで」といったオーラを放っているように見えたので、俺はただ、ミラー越しにミクの顔を見つめる。うん、よーく見ると確かに二重だ。
「何がおかしいの?」
「本当に二重だ」
「私の百倍わかりづらい、奥二重のハルに言われたくない」
俺は奥二重だったのか。知らなかった。……そもそも俺は記憶喪失だ。
「そっくりそのまま返すよ。ミクに言われたくない」
やばい、つい勢いで言い返してしまった。これは完全に「売り言葉に買い言葉」だ。言葉のキャッチボールのつもりが、こともあろうにバットで打ち返してしまった。ここで怒らせてしまってはせっかくの楽しいドライブが台無しになってしまう。
「死なないで本当によかったわね」
「何だよ、しみじみと」
何だかよくわからないが、とにかく助かった。次回は気をつけよう。
「ちょっと疲れちゃった。休憩!」
「賛成。俺もコーヒー飲みすぎたかも」
ウインカーを出し、パーキングスペースに車を停める。看板には「尾ヶ崎ウイング」と書かれていた。
「ここからの景色、奇麗でしょ。私、だーいすきなの。あ、海を見ると頭痛がするんだっけ?」
「もう大丈夫」
空はちょっと曇ってきたけど、眼下には相変わらず美しい海が無限に広がっている。
「俺はどういう状況で発見されたの?」
「そのうち思い出す、って院長先生が言ってた」
「院長のヤマモトケイって何者?」
「院長の名前、ケイっていうの?」
「そんな気が、したかも」
「記憶が少しずつ蘇っているのね」
「かもね」
「私は、あなたを知りたいの」
「……」
「だから、あんまり急いで思い出しちゃだめよ」
「よく分からないけど、分かった」

トイレに行った俺は、ミクが待つ駐車場に戻る。すると、何やら様子がおかしい。ミクが若い二人組の男と話をしている。いや、「通せんぼされている」と言った方が正しい。
一人は長い黒髪で長身、もう一人は短い茶髪で小太り。「人は見た目で判断してはいけない」とよく言うが、俺はこの時見た目で判断した。二人とも、できれば関わりたくない。
「おい、俺の妻に何の用だ」
「はぁ~、お前の女?」
二人組の男は、ニヤニヤしながら俺を値踏みしはじめた。果たしてどのくらいの値が付くのだろうか。
「この女はお前みたいな弱々しいやつより……」
残念ながら激安だったようだ。そして有難いことに、黒髪の男が俺に近づいてくる。一歩遅れて茶髪の男も近づいてくる。俺の体はまだ本調子の三割位しか戻っていない。距離が完全に詰まり、黒髪で長身の男が右足を振りかぶった瞬間、鳩尾、アゴ。そのまま首に左手を回そうとしたところで「はっ」とする。黒髪の男は既に昏倒しており、俺が左手で支えていた。
茶髪の男は、何が起こったのか分からない様子だったが、やがて相方の意識がないことに気づき、みるみる顔が青ざめていく。リーダー格の相方を失い、何も判断できない、といった様子だ。俺は動かなくなった男を茶髪の子分に押し付け、指示を出す。
「悪いが連れて帰ってくれないか」
丁寧に抱え、車高の低い、いかにもセンスが悪い車へと運ぶ。
「心配するな。死んではいない」
周りにいた家族連れやカップルには気づかれていないようだ。

体が勝手に動いた。しかも、危うく殺してしまいそうだった。俺は……俺はいったい何者なんだ?ミクはさっきから何も喋らない。
車のハンドルを十時十分に握り、ひたすら走り続ける。フロントガラスには、いつの間にか大粒の雨が落ち、ワイパーが間隔を開けずに動いている。そして車は濃い霧に包まれた。俺の頭の中と同じ、どこか知らない世界に迷い込んでいるようだった。
ミクは一体何を思うのか。恐る恐るルームミラーで様子を窺うと……目が線!
「さっき、妻って言ってくれたよね!」
そっちでしたか……って、違うの?

とある古民家カフェ。古き良き、そして堂々たる佇まい。まるで映画のワンシーンに登場するお洒落な家、といった印象。「へぇー、やるじゃん、ミク」
「どう、気に入ってくれた?」
「うん、気に入った」
自慢じゃないが、俺は、食に関してはまるで無頓着。食べるも飲むも、ほぼ百パーセント雰囲気重視派だ。記憶は失っていても、本能は失っていない。本能とは人間が生まれつき持っているとされる、ある行動へ駆り立てる性質。上手く説明できないが、たった今決めた俺の持論だ。つまり、この店はいい。
雨は通り雨だったのか、カフェに着く頃には既に止んでいて、雲の切れ間から日が差していた。ミクおすすめのテラス席こそ、椅子もテーブルも濡れてしまって使えないものの、室内の雰囲気は、昭和の香りが色濃く残ったレトロ感で満ち溢れていた。耳を澄ませば、潮騒が風に乗ってやってくる。
「私ね、マッドデイモン様の大ファンなの」
「サマ?」
「マッドデイモン様といえば、何だかわかる?」
「オーシャンズイレブン」
あのスリのシーンはイマイチだが、悪くないキャラだ。
「ちがーう。ボーンアイデンティティでーす」
マッドデイモン様の話題を振られた時から、なんとなく察しはついていた。が、何となくストレートには答えなかった。ただ、ミクの反応を見たかっただけかもしれない。
「実際には続編が四つ出ていて、ボーンアイデンティティはシリーズ第一作なんだけどね。今日のハルを見て、リアル・ジェイソンボーンだと確信したの」
やっぱりそうきたか。記憶喪失は当たっている。体が勝手に動いて、チンピラを殺しかけたこともニヤリーイコール。偽造パスポート……この免許証はいったい?
「ひょっとして、思い出しちゃった?」
「いや、少なくとも俺はCIAとは無関係だと思う」
「ふーん」
「あれ、おしまい?」
「うん、おしまい」
会話が途切れた所で、ノンアルコールビールと、アンチョビとブラックオリーブが乗っかったピザが運ばれてきた。「美味しいもの食べないなんて生きている価値ナシ」と言っていたミクがセレクトしたメニュー。絶対美味しいに決まっている。そして、実際すごく美味しい。ここのお店のアンチョビとブラックオリーブとピザの組み合わせは、ミク曰はく、世界一美味しいのだそうだ。「世界一」はあまり多用してはいけない派の俺でも、これは確かにうなずける。「食に無頓着」と言っておきながら、もう一度言わせてもらう。すごく美味しい。そして、美味しいものを食べているミクの顔が、無邪気すぎる。
「今日はなぞなぞがかなり進展しちゃったから」
俺のことを知りたい、と言っていたと思うのだけど、彼女の中では、事情がちょっと複雑そうだ。そして、今の俺の心境は……最高に複雑だ。
「体が勝手に動いた」
「あっという間だったね」
体が本調子だったら、あの三倍は速い、と言いかけたがやめた。
「いいのか、こんな俺に関わって」
記憶は戻らないままだが、この現実がまともじゃないことくらいは分かる。目の前にミクがいなかったら……殺していた。
「ここ、映画のワンシーンに使われそうなお店でしょ」
話題を変えてきた。ここは付き合おう。
「俺も第一印象でそう思った」
「和風だし、マッドデイモン様にはちょっと似合わないけどね」
「CIAはハズレってことですな」
「フフッ、そうみたいね」
「今度はハルの運転でここへ来て、同じシュワシュワでも、ちゃんとしたビールが飲みたいな」
「あれ、そういえば何で俺もノンアル飲んでいるんだろう?」
「何だか一人でノンアルは悔しいから、勝手に頼んだの。私のおごりなのだもの、贅沢言わない」
ミクは意外と「S」だということが、とりあえずここで判明した。

ヒモ男生活?は二週目に突入した。掃除、洗濯、買い物、料理。一応しっかりと家事をこなしているので、「ヒモ男」ではなく「主夫」と言ってもいいと思うのだが、相変わらずミクは俺を「ヒモ男」から昇格させる気はないらしい。「尻に敷かれる」とは、また違った感覚なのだけど、彼女と上手くやっていくには、このまま昇格を望まない方がいいだろう。
この一週間で色々と分かったことがある。自分のこと、そしてミクのこと。今の俺は……自分のことよりも、むしろミクのことを、もっと知りたいと思うようになっていた。

日曜日。今日はお互い遅い朝を迎えた。昨日は夫婦?で遠出し、帰宅後の二人は、大量に買い込んだ酒を飲み尽くし、更にコンビニで追加購入した酒も飲み尽くし……そのまま二人は寝室へなだれ込んだ。
「ハル~、お願~い。お風呂にお湯ためて」
「じゃんけん」
「やだ。これはハルの仕事でしょ」
朝から体が動かない。俺もミクも、ドラクエで例えたら、ヒットポイントのゲージは黄色で、今にも赤になりそうだった。「我が家のペットにホイミスライムがほしい」って本気で思った。とりあえず、昨晩の出来事は……ご想像にお任せします。
俺は一足先にベッドから抜け出し、シャワーを浴びる。並行して、お風呂にお湯をためることにした。「早くサッパリしたい、でもご主人様を差し置いて、先に湯船には入れない」
判断を誤ると、即ゲームオーバーだ。
「なーんだ。もう入っちゃったの?一緒に入りたかったな~」
 一瞬後悔したが、一緒に入ってしまった暁には、ヒットポイントは確実に赤くなるだろう。すなわち、ゲームオーバーだ。判断は間違っていない。

昨日の帰り道、道の駅に寄って買い物をした。意外にもミクは鮮魚に興味を示し、お店の方に薦められた、二キロのマダイを即決で購入した。驚くべきことは、ちゃんとクーラーボックスを持参していたこと。もはや、素人の買い方ではない。
ミクによると、このタイはオデコが出ているからオスで、一晩寝かせた今日が食べ頃、とのことだ。確かに俺もそう思う。
でも、である。ミクの、ここ数日の行動を隈なく観察しているが、何で魚の「目利き」ができるのか不思議でならない。三日前、「サンマの塩焼きが食べたい」なんて言ったかと思ったら、スーパーのお惣菜コーナーで、既に塩焼きにされているサンマを買ってきて、レンジでチンするような女性だ。我が家のキッチンには高性能グリルがあるにもかかわらず。
「矛」と「盾」。この二つを合わせて「矛盾」と読む。恐らく「三」と「久」を合わせても「むじゅん」と読むのではないだろうか。

昨晩はやや飲みすぎてしまったので、「ブランチはラーメン」ということになり、とりあえず駅前まで歩いて来てみた。
「何系のラーメンがいい?」
「肉がいっぱい乗っているヤツ」
会話が少々噛み合っていないが、俺にはちゃんと伝わった。多分このお店で大丈夫だ。
俺は醤油ラーメン、ミクは塩チャーシューメン。もし二人がカマキリだったら、俺は確実に食われるな。

そんなこんなで本題に入る。マダイだ。俺の予想はこうだ。
サンマの塩焼きが作れないふりして、実はタイはしっかり捌くことができ、更には「舟盛り」にしてくれる。
俺の予想は……見事にはずれた。

「タイの捌き方教えて!」
「分かった」
予想ははずれたが、何だか悪くない展開。多分俺はタイを捌くことができる。タイを目の前にして包丁を持つと、勝手に手が動いた。
「へぇ~、こんなところにも小骨があるのね」
「煮たり焼いたりなら、下処理は簡単なんだけど、刺身にするには、皮を引いたり、小骨取ったり、時には炙ったり湯引きしたり。結構手間がかかるんだよ」
「でも、面白そうね!」
「残りの半身、やってみなよ」
「わかった!ハルのお手本観ていたら、何だか出来そうな気がしてきた」
気づけば可愛いエプロンをしていた。「見ためは奇麗な女性だけど、中身は意外と大雑把なおっさん」の印象が、少し変わったかもしれない。
「上手にできたね」
「楽しい!もう一匹買ってくればよかった」
俺も楽しかった。何でこういう展開になったのかは分からないが、ミクが楽しいならそれでいい。
「今晩は迎え酒よ!」
「はい、是非お付き合いさせていただきます!」

火曜日。大分体の調子が戻ってきた。土曜日の晩に一旦急降下したが、それは俺とミクの二人で作った「タイづくしフルコース」にて、すぐに挽回。昨日の晩も……ややヒットポイントが低下したけど、土曜日よりは軽かったので、一晩眠ってリカバリーすることができた。とはいえ、朝ごはんは「ガッツリコメが食いたい」と、二人の意見は一致。何故かキッチンの引き出しに乾燥ポルチーニが入っていたので、冷蔵庫に入っていた冷や飯とマリアージュさせて「なんちゃってポルチーニリゾット」を作ってみる。リゾットは、本来米から作るのだけど、今回は冷蔵庫にあった「冷や飯」から作ったので「なんちゃって」。うん、これ、予想以上にイケる!
「ハル、すごーい!」
「テキトーに作った割には美味しくできたと思う」
「お店持てるんじゃない?」
「小料理屋春」
「小料理屋三久の方がいい」
あれ、俺の店じゃないの?
ミクによると、乾燥ポルチーニは、買い物途中、たまたま立ち止まったら、たまたま目に入り、更に「ポルチーニ」という響きにピ~ンときて、衝動的に買ってしまったそうだ。何の料理に使うつもりだったのか聞いてみた所、「カレーにでも」と、そこは軽く考えていたらしい。独特で繊細な香りが魅力のイタリア産高級キノコが入ったカレー。実現したなら、きっと最高に贅沢な一皿だったと思われる。そしてミクのことだ。カレーはカレーでも、レトルトカレー中辛をチョイスしたに違いない。

朝食を済ませ、ミクを送り出し、本日のノルマの、掃除と洗濯を済ませた後、リハビリに出かける。今日は片道一時間コース。天気も良いし、海まで行ってみるつもりだ。
前半は車道、後半は遊歩道。遊歩道はアップダウンがあるものの、木々の隙間から時折見え隠れする、青い景色に癒される。足腰の具合は元通りに近い。今週末には百メートル十一秒位で走れるような気がしてきた。俺の百メートルベストタイム……そういえば俺は記憶喪失中だったっけ。
歩きはじめて一時間。ようやくこの日の目的地である、つり橋の看板が見えてきた。平日ということもあり、閑散としている。手前に売店があるので、ここでちょっと休憩。
「あれっ」
モスグリーンのスラックスにこげ茶のセーター、そしてトレードマークの黒縁眼鏡。白衣姿よりもかっこいいじゃないか、山元先生。「こんに……」
声を掛けるのを寸前でやめた。何だか人を探しているようだ。離れて様子を見てみることにする。すると、五分とかからずお相手が現れた。女性であった。年齢は山元先生と同じ位だろうか。五十歳前後に見える。声を掛けなくて本当によかった。
「これは面白い展開!」
なんて思ったのも束の間、何か引っかかる。
「あの女、どこかで見たことがある」
名前は思い出せないが、絶対にどこかで見たことがある顔だ。いい思い出?それとも悪い思い出?そんなことを考えていたら、いつの間にか目を離してしまい、二人はいなくなった。と思ったら、二人は売店前のベンチに腰を下ろしていた。やがて山元先生がその場を離れ、しばらくして缶コーヒー二つ持って、また隣に座った。
初めは本当に面白い展開、いわゆる恋愛モードになる予感がしたのだが、今現在の雰囲気は、それとは程遠い。二人とも、何やら超が付くほど真面目な話をしている。やがて女が泣き出した。
「山元先生は何物なのだろう」
勿論医者ということは知っているが、それだけではないはずだ。とにかく眼鏡が怪しい。
自分のこと、ミクのこと、そして山元先生のこと。あの女のこと。本当に俺は、この先忘れてしまっている「何か」を思い出すことができるのだろうか。俺は今、バックミラーのない車を運転している。
女が泣きだしてから数分が経った。そして、あっという間に状況が一変した。二人とも神妙な面持ちから、一瞬で、砕けた笑い顔に変わった。
山元先生が笑っている。女と二人で笑っている。無理して笑っているようには見えない。何がどうなった?二人とも二重人格者としか思えない。
しかし、二人を観察していて感じたこと一つ。俺は何故か凄く幸せな気分になった。

木曜日。ミクは俺が作った卵サンド二つを平らげ、コーヒーを飲みながら化粧をする、といった離れ業をやってのけ、あっという間に家を出ていった。今日のノルマは掃除と晩御飯の支度のみ。ササっと掃除を済ませ、日課となっている足腰のリハビリに出かける。今日はちょっと遠征だ。
国道を南へ歩く。地図で調べた限りでは、ルートは海沿いだけど、実際は木立に囲まれた、緑のトンネルが続いた。ようやく海が見えたのは、歩きはじめて一時間以上が過ぎた頃だった。
歩きはじめて二時間が経とうとした頃、何やら怪しい立ち寄り温泉施設の看板が目に入った。どうにも気になってしまい、引き寄せられるように階段を下り、暗いトンネルを進むと、看板から感じた不安は払しょくできるくらい、しっかり整備された入浴施設であることが分かった。入り口には「準備中」という案内板が下げられており、何故かホッとしてしまう。「ミクは連れて来られないなぁ」脱衣所付近にはフナムシがたくさんいたので、虫嫌いのミクを連れてきたら、確実に絶叫だろう。
海に目をやると、近くに小さな漁港があり、防波堤の突端で親子が釣りをしていた。何が釣れるのか興味が湧き、ちょっと見に行ってみる。
「何が釣れるのですか?」
お父さんが俺の問いに答えようとする刹那、子供が持っていた竿に何かが掛かった。竿は弓なりにしなっている。
「ウツボだ」
水深が浅いらしく、リールを巻かずとも、竿を立てただけで黄色と茶色の縞々模様が確認できた。大物らしく、お父さんも取り込みに参戦し、二人がかりで抜き上げた。
「危ないよ、噛まれたら大怪我するよ」
とっさに団子状になって抵抗するウツボのエラ付近を掴み、お父さんから借りたナイフを使って顔と胴体の間にある骨を折り、絶命させる。
「これで大丈夫。見た目はちょっとアレですが、美味しいと思いますよ」
「ありがとうございます、恐ろしいですね!」
「このウツボ、アナコンダ並みにデカいからね」
実際、アナコンダを見たことはないので適当に答えてしまったが、要するに「大物ですね」と、釣り人に対する敬意を最大限表したつもりだ。
「あ、いや、あなたの手際の良さを見ていたら、私まで殺されてしまいそうな殺気を感じてしまいました」
そっちでしたか。
人によってはお節介、って思われてしまうことかもしれないが、この親子からは感謝された。お父さんはちょっとだけドヤ顔、そして息子の目は、生き生きと輝いていた。胸が……張り裂ける思いがした。

「よう、久しぶり」
「記憶喪失、って聞いたのだけど」
また二時間かけて歩いて帰っても良かったのだが、買い物にも時間を費やさなければならないので、電車を使うことにした。「ヒモ男」にとってはかなり贅沢な選択だが、晩御飯の準備が遅れることだけは絶対に避けなければならない。ミクはいつだって飢餓状態で帰ってくる。
電車はこの時間、一時間に一本だが、たとえ一時間待ったとしても、二時間かけて帰るよりは速い。何より楽だ。ここは迷わず文明の利器を使い、ミクの帰宅に備えることにした。
ホームにたどり着くと、人の気配はなく、閑散としていた。気配はない。こうやって俺に近づくことができる奴なんて……世界でたった一人しか知らない。
「『聞いた』とは?」
「……」
「とにかく、また会えて嬉しいよ。会ってちゃんと礼を言いたかった。あの時はありがとう」
「自分はあなたを殺していたかもしれない。そしてあなたをだまして、ライフジャケットのボンベを抜いた張本人だ。なのに『ありがとう』だなんて」
「俺は生きているよ」
あの時、この男にどんな事情があったかなんて、俺には分からない。でも、俺はあの時確信した。俺を殺したがっていたやつは、この男ではない、と。薄れゆく意識であったが、ちょっと俯いた彼の表情からは、何か覚悟のようなものが感じ取れた。隣で笑っていたヤツとは違う。
「実際、宝くじが当たる位の確率だと思っていた」
「勿論、三百円だろ」
「いや、一等前後賞」
「俺はしぶといらしい」
「そうだな。でも、あの時自分はそこまでしぶといとは思わず、例のものは……」
「宝くじが当たっていたことにでもするかな」
彼の名前は酒井。本名かどうかは分からないが、とにかく「酒好き」酒井だ。
「先端恐怖症らしいね」
「彼女から聞いたの?」
口下手な酒井が、彼女とどんな会話をしたのか気になる。気になれば気になる程、おかしくなる。以前、合コン、キャバクラ、お見合いパーティー。自分にとっては全て「拷問以外の何物でもない」って言っていた。もっとも、大好きな釣りの話となれば別、って付け加えそうな気がしないでもないが。とにかく、よく頑張ったな、酒井。
「そんなあなたが、鍼屋(はりや)の同業者と仲良くなっていたとは驚きだ」
「あの、色黒のバイクオタクは、俺と違って真面目で誠実だ。夏になったら、ちゃんとお中元届けた方がいいぞ」

「ヤツは死んだのか?」
「あなたと違って、すぐに沈んだ」
駅のすぐ横にある踏切が鳴りだした。「あれっ」と思い、線路の方向に振り向くと、特急列車が警笛を一回鳴らして通り過ぎて行った。よかった。俺はもうちょっとここにいたい。もうちょっと酒井とたわいもない話がしたい。
「菜々美さんも殺されかけた」
「改めて、救ってくれてありがとう」
「自分は・・・・・・何もしていない」
そんなことはないはずだ。俺にはわかる。命懸けで守ってくれたに違いない。
「彼女は最強だろ?おみくじで大吉しか出さない、正真正銘幸運の女神なんだ」
「ああ。あなたが奥さんを裏切った理由が、あの日分かった」
「……」
俺の希望通り、普通列車は行ってしまったばっかりで、駅のホームで一時間近く待つことになった。俺と酒井は何を話すわけでもなく、裸足になって駅構内に設置された足湯に向かった。温泉街の駅って、なんて素晴らしいのだろう。
「いかがです?」
リュックサックから、いかにも安酒といった絵柄のワンカップを二つ取りだし、一つ俺に手渡した。
「足りなければおかわりありますよ」
「いや、一つで充分。今日はまだ仕事が残っているんだ」
「そうでしたか」

不思議な仮初の夫婦生活は、二週間が経過しようとしていた。俺とミクの間には、穏やかな時間が流れている。幸せ、なのだろう。
「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい!」
洗濯と掃除を終えたら、出かけるとしよう。

*     *     *

「記憶はいつ戻ったのですか?」
「二日前だ」
「予定より早かったですね、藁科さん。あと一週間、ミクさんの笑顔が続くはずだったのですが」
「やはり記憶喪失はお前の仕業だったのか」
「その前に……私は命の恩人だと思うのですが」
山元は無表情だが、間違いなくにやけている。そして黒縁眼鏡が五ミリ下がっているのを俺は見逃さなかった。こいつには隙がほとんどない。あるとすれば唯一、メガネが五ミリ下がっている時のみ。そう、今この時、山元は少々饒舌になる。
「『海岸で見つけた』も嘘だろ」
「さすがに十一月の海で、海岸まで流れ着くのを待っていたら、しぶといあなたでも確実に死んでしまいますから」
「白状したな。全ては計画通り、ということか」
「私はそんなに利口じゃないです。ただのAB型です」
「そういえばあの時、やけに防寒着がゴワゴワしていたのは気のせいか?」
「勿論、気のせいではないですよ」
「ついでにGPSも仕込んでいただろ」
「グローバル・ポジショニング・システム、と言うらしいですよ」
「お前がわざわざ海まで出向いたのか?一般人を巻き込んでは、足がつくだろ」
「バイク屋の若造が、冬の海でジッェットスキーをやりたい、って言っていました」
山元の黒縁眼鏡は下がったままだ。
「酒井が知っていたが」
「きっと勘がいいのでしょう」
「何をしようとしている?ミク、いや、菜々美はなぜ?」
「飯島菜々美さん、たっての希望です」
「どうやって確認した?」
「会った瞬間の表情で確認が取れました。そして菜々美さんの目を見て、予定の変更を決断しました」
「予定の変更と……」
俺の話を遮るように、跨線橋(こせんきょう)の下を特急列車が通り抜けていく。山元は、もう何もかもがお見通し、とばかりに、おもむろに缶コーヒーを口に運んだ。そして眼鏡を直した。
こいつとはかれこれ二十年の付き合いになる。もうこれ以上、会話はいらない。黒縁眼鏡を直してしまった今となっては、会話をしても無駄と言った方がいいかもしれない。でも、あえて言葉で伝える。
「妻と娘と息子が待つ家に……帰ろうと思う」
「そう言うと思いました」

*     *     *

私は鮎川三久。飯島菜々美は、二ヶ月前に死んだことになっている。両親もとっくにいなくなっちゃったし、あっさり決めたわ。そもそも菜々美っていう名前、あまり気に入ってなかったし。菜々美と三久。三文字の名前って、二文字の名前よりも、人生三十三パーセントも損するでしょ。
私は相変わらず山元院長の病院で働いている。頑張って、調剤薬局事務の資格を取ったので、職場は変わったけどね。総務課の制服、田舎の中学校の制服みたいで気に入らなかったの。その点、薬局は薬剤師も事務も、全員白衣なので、正式に医療従事者になった気分。
そして最近は、裏の仕事の窓口役もこなすようになった。山元院長、そして藁科さんが関わっている、裏社会の真相を知ってしまった私が生きていく道はただ一つ。山元院長の管理下に置かれるしかないみたい。それを拒むと、本当かどうかは分からないけど、藁科さんのように、自身、もしくは自身とその親しい人間の命が狙われることになるみたい。藁科さんの場合、奥様ではなく、私がその標的になったってことは……ま、私の方が親しい人間だった、ってことね。
そして薬局に来て、驚き一つ。以前仲良しだった、旧姓渡辺の小山さんと偶然再会。彼女、薬剤師の資格を持っていたのね。お酒は飲めないけど、趣味は多彩だし、私と同じ位食いしんぼうだし。何より気が合うのでとても頼もしい。
因みに彼女には、私が鮎川三久である理由を「結婚して色々あって、ぐちゃぐちゃになってドロドロになって、最後は家庭裁判所が絡んで改名した」って言ってある。初めはキョトンとしていたけど、何故かすんなり信じてくれた。
何でも小山さん、「私は山元先生に助けられた」って、しきりに話していたわ。理由は秘密らしいけど。
小山さん、山元先生のこと、完全に男として見ているわね。山元先生について彼女が話す時、頬がほんのり赤らむし。それに以前「私、男は顔で選ばない」って断言していたし。あ、別に山元先生の顔が悪いって言う意味じゃなくてね。メガネのセンスが悪いだけで、取ったら意外とイケメンだったりして。……ないわね。
裏社会に関わるという「罪悪感」と「緊張感」。苦しい?逃げ出したい?いや、私はメチャ快適!

「はいメモ。次の仕事はちょっと手ごわいわよ」
「おいおい、もっと楽なのにしてくれよ」
「ダメよ、しっかり働きなさい」
「……」
「色々と大変ね、ハルって。奥様に対して隠し事がたくさんあって」
「シャレになってないっつーの。はいはい、やります、やらせていただきます」
「フフッ」

ハル、いや藁科さんは家族の元へ帰っていった。勿論、私を置いて。でもね、こうなることは初めから分かっていたの。
ま、いいわ。許してあげる。一度だけ藁科さんの家を尋ねたことがあるんだけど、奥さん、寝込んじゃっていて、お会いすることは叶わなかった。あんな男だけど、何だかんだ愛されているのね。
たった二週間だったけど……幸せだったわ。あなたと一緒に暮らせたこと、たった一度だけだけど、私のこと「妻」って言ってくれたこと。素敵な夜だって、幾度かあったわね。できればあと一週間、いや一日。ハルが記憶をなくしたままでいてほしかった。

彼の正体は、家族思いでちょっとだけ浮気性のサラリーマン。表の顔はね。裏の顔は、腕利きの殺し屋と、私のいい人、ということね。
彼は殺し屋を辞めるべく臨んだ最後のお仕事で、逆に船から冷たい海に落とされてしまったのだとか。警察は事故として処理したみたいだけど、実際は殺人、ではなく、殺人未遂ね。裏情報によると、ライフジャケットを膨らますためのボンベが抜かれていたらしいわ。
でも、冷たい海に沈みゆく最中、彼は絶望どころか、逆に清々しい顔をしていたみたい。殺し屋であったこと、それと私とのこと。死んでしまうことで、二つの罪をぬぐえるとでも思ったのかしら。

私はどうしても彼が死んでしまったことを、いや、死んだと思ってしまったことを受け入れられず、真相を探ろうとして、一ヶ月後、同じ船で殺されかけた。でも、酒井さんという、猿みたいなハルのお友達に助けられ、何とか生きて帰ることができた。
私は何時だって幸せを運ぶ青い鳥。おみくじは大吉しか引いたことはないし、じゃんけんだって、勝率は推定九十パーセント以上。これ、本当よ。ただし、男運だけは最低だけどね。
帰り際に、酒井さんから頂いたタイ。ハルに似て、元気で、そして目が小さかった。あの時は「ミクに言われたくない」って、本気で突っ込んでほしかった。私はこの時、「藁科さんはタイに生まれ変わったんだ」って思うようにしたの。私って意外と切ない女でしょ。

でもハル、甘かったわね。
地獄に落ちるべき人間は、そんなにかっこよく死ねないの。
山元院長は私を利用して、引退しようとした腕利きの殺し屋を取り戻した。
そして私も藁科さん、いや、ハルを取り戻したの。今回の一件の黒幕を利用して。

逃げても逃げても、私という樹海からは絶対抜け出せないんだから。

第二章  女


 半年前。

「診察券番号九番の患者様、診察室にお入りください」
消化器内科専門山元医師のアナウンスは、声のトーンに変化がほぼ、といっていいほどなく、機械的だ。診察室に入り相対すると、一段と「機械っぽさ」の度合いは増し、よくテレビドラマで見られる「患者に寄り添う模範的な医者」とは程遠い。もっとも、これは俺に対してのみかもしれないが、他の患者に対して、これが劇的に変わるとも思えない。営業マンなら、確実に顧客はいなくなるだろう。
しかし、営業マンではない、医師である彼は、患者からの信頼は絶大のようで、待合室の電光掲示板は予約患者で埋め尽くされ、予約なしの初診患者はまず山元医師の診察にまわされることはない。
AB型。俺が山元の素性について知っている情報はこれだけだ。

俺は若い頃、潰瘍性大腸炎という難病を患った。因みにこの病気は、重症度の分類にもよるが、国から医療費がでる「指定難病」なのだそうだ。一年前凶弾に倒れた、元内閣総理大臣も同じ病気だったらしい。
因みに俺の場合、正確には「患ったことになっている」が正しい。
病院へは定期的に通院しているが、これは家族からの目を反らす口実である。定期的に薬を出してもらわなければならない、医療費がかからない。消化器内科が専門である山元とちょくちょく合うには都合がいい病気というわけだ。
「どうですか、お体の具合は」
「最近疲れ気味だ」
「早速ですが、これを」
人の話を聞いちゃいない。もう少し寄り添えよ、って言った所で態度が変わることはないので、黙ってメモを受け取る。
「仲間がいるかもしれないので気を付けるように」
「‥……」
「いつもの胃薬と、今日は疲労回復の漢方も出しておきます」
一応俺の話は聞いてはいたようだ。俺は山元から受け取ったメモに目をやる。
〈目的は男の始末と、持っているスマホの破壊。男の名前は布村彬。九月二十三日、調布飛行場から朝一の便に乗って大島へ。布村は次の便に乗ってくる。空港から東に三キロ離れた、草野球場隣の建設資材置き場跡地で待ち伏せろ〉
「覚えましたか」
「男の特徴は?」
「ウブロの時計を付けている」
「ウブロ?」
「‥……」
「それだけか?」
「左手に付けている」
俺は山元にメモを返した。仕事の作戦は、こうやって仲介者である山元からメモが渡され、伝えられる。そしてその場で内容を覚え、メモを返すことになっている。よって、この仕事には、ある程度の暗記力が必要となる。
山元は割と簡潔に、いや、今回みたいに簡潔すぎるものばっかりなので、暗記があまり得意でない俺でも務まるのだが、中には毎度四百字詰め原稿用紙二枚分以上のメモを渡してくる仲介者もいるらしい。そんな仲介者を持つ殺し屋はたまったものではない。
山元の作戦は簡潔だが、必ずうまくいく。とにかく、先を読む能力が異常な位長けている。二十年付き合っているが、大きな狂いが生じたことは一度もない。寸分の狂いはたまにあるが、そこも山元の中では計算済みのようだ。命のやり取りをするこの仕事、俺が今現在生きていることで、山元の作戦の「精度」が証明できる。
当たり前だが、一つの仕事には、必ず一人以上の依頼者がいる。俺はそれが誰なのか知らされないし、殺す理由も知らされない。俺はただ、報酬のためだけに仕事をする。ただし、理不尽な仕事は、掟により御法度とされている。俺たちにも一応赤い血は通っているわけで、殺るのは少なくとも「悪いヤツ」でなければならない。この、仕事が理不尽かどうかの調査も山元の仕事となっている。
掟がどうとか、この業界は江戸時代から何一つ変わっていない。もっとも、江戸時代の殺し屋なんて、小説の中でしか知らないが。
ただ一つ、江戸時代から変わっているもの。それは、報酬の全額後払い制、だと思う。大方の察しはつくと思うが、俺と山元の関係は、残念ながら対等ではない。

*     *     *

「おはようございます。今日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくなっ」
今日は酒井に誘われ、ヒラメを釣りに来た。船に乗って釣りをする、いわゆる沖釣りというやつ。更にこの日は「仕立て船」という、仲間内での貸し切りだ。幹事さんは、先ほど挨拶を交わしたエモリさん。酒井の釣り仲間ということで、酒井の紹介により、俺は今ここにいる。「釣り仲間」ということにはなっているが、歳は十、下手したら二十近く離れているかもしれない。仲間というより、実際は我々二人の沖釣り、そして人生の大先輩。アラフォーの俺と酒井は、たいして若くもないにも関わらず、エモリさんからしたらクソガキ同然だ。率先して船への荷物運びを手伝う。
「いつも悪いね!」
「お構いなく!」
波で揺れる船へ荷物を積んだり下ろしたり。ほんの二、三メートル、階段三、四段の段差での積み下ろしは、俺と酒井にはなんてことない作業なのだか、足腰が弱ってくる還暦前後となると、これが相当大変な作業なのだそうだ。よって、クソガキ二人は大変重宝され、最近俺はよくお誘いを受けるようになった。
「エラメさんおはようございます!」
「おう、カトキンさんおはよう!」
他の釣り仲間が続々と到着し、幹事であるエモリさんに挨拶をしていく。エラメ、かときん。こんなブログネームを使った挨拶も、はじめは違和感だらけであったが、最近は大分慣れてきた。
説明は前後するが、今日集まった釣り仲間は、私と酒井以外の皆さん全員個人ブログを運営していて、ここでの繋がりを経て釣り仲間になったと聞いている。要するに今日は「オフ会」ということになる。
何故酒井がエモリさんと知り合いなのかは不明だが、言葉の端々から察するに、何やら二十代からの付き合いっぽい。長い付き合いの割には、ちょっとよそよそしい雰囲気はあるが、気心は通じる間柄のようだ。気心が通じる、そういえば、山元はいったいどんな趣味を持っているのだろう。ま、ヤツは十中八九無趣味だろうな。趣味以前に、まずメガネがダサい。あれじゃいつまで経っても結婚は無理だ。
話は戻り「エラメ」。エモリさんは大のヒラメ釣り愛好家で、年間二十回近く出かける釣行のうち、約三分の一をヒラメ釣りにあてるそうだ。そのため、ヒラメの「ラメ」にエモリの頭文字「エ」をつけ、ブログネームとしている、と、俺は勝手に思っている。因みに「カトキン」は多分カトウさん、「SAYA」は、これも多分サヤマさん、「イカ仙人」は名前こそ分からないが、多分イカ釣りが好きな方、「あるじょんぬ」さんは……不明だ。何故にひらがな?
ブログの面白い点は、日記のように、書き続けることで過去の自分に再会できることもさることながら、「コメント」や「イイネ」によって、リアルタイムにリアクションがわかることも大きいと思う。しかし、俺が思う最大の面白い点は、自分の名前を好き勝手に設定できること。
我々日本人は、結婚、離婚、養子縁組以外、よっぽどのことがない限り、改名はできない。「名」については基本的にできず、「氏」も好き勝手にはつけられない。因みに我妻は旧姓渡辺で、俺との結婚を機に藁科(わらしな)に変わったが、「出席番号で、まさか渡辺より後ろにくる苗字になるなんて思いもしなかった」と不満そうだった。妻に「ブログでもやってみたら?」って、今度提案してみることにしよう。
そんな「オフ会」の主催者、エラメことエモリさん。年間釣行のほとんどを仕立て船で、しかも幹事をこなしているのには恐れ入る。仲間の募集、船宿とのやり取り。ぬかりなく準備を万全にこなせる能力もさることながら、とにかく人望が厚いのだろう。毎回釣り仲間を十人集めるって結構大変だ。そして、何よりこの人は見ていてマメである。「メール(ライン)奇数回の法則」を原則やらない俺には絶対無理な役目だ。

「ポイントにつきました。準備できた人からはじめてください」
港を出た船は、べた凪の海を真沖に走り、やがてスローダウン。船長のアナウンスで皆「待ってました!」とばかりに仕掛けを海に沈めた。
折角なので、ここでちょっとヒラメ釣りの説明をしよう。実は、こう言ってはなんだが、俺はヒラメ釣りが得意だ。多分この船の中では、エモリさんの次にたくさん釣る自信がある。
ヒラメ釣りの特徴は、何といっても「生きたイワシ」をエサに使うこと。いわゆる「泳がせ釣り」という釣り方だ。この釣りの醍醐味は、獲物にエサを食わせることよりも、むしろ「アタリ」と呼ばれる、ヒラメがエサに興味を持ったところから始まる。
まずヒラメがエサのイワシに近づくと、エサのイワシが恐怖で暴れ出す。「前アタリ」というやつだ。ちょっとドキドキが始まる。恋愛で例えたら、好きな女の子に「おはようと」って言われた感覚だ。勿論、ここで竿を立ててしまってはお話しにならない。ヒラメにはまず、冷たい態度で接しなければならないのだ。釣り用語では、これを「ヒラメ四十」といい、「おはよう」といわれても、約四十秒間無視しなければならない。もどかしい、もどかしすぎる。せっかちなヒラメは「バイバイ!」って去ってしまうが、大抵は愛を育てながら、エサのイワシを少しずつ食べていく。ああ、少しずつ食べられたい。そして竿先の揺れは次第に大きくなっていく。ヒラメは口に違和感を覚えると、エサのイワシを吐き出してしまうので、ここからは特に微妙なやり取りが必要となる。無視といっても、少し位思わせぶりな態度も必要だ。更に大きくなっていくヒラメからの反応。相手の目がウルウルしだし、「落ちた」と思ったその瞬間、ようやくこちらから「おはよう」の一言を返し、しっかり俺の左腕を掴まれている、いや、ヒラメが針に掛かっていることを確認して初めて、竿を立て、リールを巻きはじめる。
そう、ヒラメ釣りは非常にゲーム性が高い釣り。沖釣り界の「恋愛趣味レーションゲーム」といっても過言ではないのだ。なので、この釣りでは皆、釣り座に座ることなく、常に竿を手に持ち、しおりちゃんからのリアクションを必死に待っている。ただ一人を除いては。
「おう、ちゃんとやらないと釣れないっぺよ」
ほ~ら、早速茨城生まれの船長から指導が入った。でも、こいつは全く動じることはない。竿をキーパー(竿受け)に固定したまま、じっと座って竿先を見つめている。
酒井のモットーは、「本来の三十パーセント以下の労力で、本来の七十パーセント以上の成果を得ること」なのだそうだ。因みに「三十パーセント、七十パーセント」の、数値設定の根拠は不明。ただし、実際見ていると、毎度「本来の二十五パーセントの労力で、本来の五十パーセント前後の成果」を得ているような気がするが。とにかく無駄に動かない。動物で例えたら、生涯の殆どを動かず過ごすナマケモノだ。到底、俺の同業者とは思えない。
そう、彼もまた裏の顔を持っている。専門はナイフ。この男がナイフを使って仕事をする光景が全く想像できない。しかし、これには本人も違和感を覚えているらしく、「疲れる」と、最近愚痴を言いだした。先日、「もっと楽な手段を研究中」と言っていたが、これは企業秘密ということで教えてくれなかった。

*     *     *

「もう、大迷惑なんだけど」
妻が帰宅するなり……主語なし会話。でも、言わんとすることは大体わかる。これは確実に会社の愚痴だ。
「今日はどうした?」
「本社から自黒の薬剤師が移動してきて、元々いた若い男薬剤師と……」
全部書いたら、四百字詰め原稿用紙四、五枚になりそうなので、簡単にまとめる。内容を要約するとこうだ。
本社から、ちょっと自黒だけど、若くて美人の薬剤師が移動してきた。そして直ぐに元々いた佐田という男薬剤師といい関係になったっぽい。女薬剤師は、ちょっとツンツンした性格で一緒に仕事をしづらいし、サダ坊(佐田)は、普段殆ど休まないのに、体調不良でずっと休んでいるし。このクソ忙しい時期、自黒女が来てからもう大変。はっきり言って大迷惑。
ということらしい。因みに妻の名前は小雪といい、色が白いことで、こう名付けられたそうだ。多分ではあるが、「自黒」以外のルックスは負けを認めたのだろう。そして年齢は大敗。今回、相手の「自黒」を強調することでマウントを取り、ストレスを発散したと思われる。
それにしても若いとはいえ、あの、どう見てもオタクみたいな風貌のサダ坊が美人と。俺は何度か、妻の送迎で薬局に行ったことはあるが、お世辞にも、あいつはモテるとは思えない。ましてや美人と。
ま、俺には関係ないか。自黒の薬剤師には悪いが、今宵は悪役になってもらおう。
「話は変わるけど、政治家がお金をごっそり取られた事件、さっきテレビでやっていたけど見た?」
「ちらっと見た」
「何でも、佐藤とかいう参議院議員が、外国のハッカーに預金を全額取られたらしいわよ。しかも十億円だって。いい気味よね」
「不適切発言で散々叩かれまくった挙句、これだからな。誰一人、この政治家を可哀そうだとは思わないだろう」
「しかも十億円って、どうやって稼いだの?私たち庶民を馬鹿にしているわね」
「ハッカーがスーパーヒーローに思えるな」
「実際、スカっとしたわ」
この話題のおかげで、妻の機嫌はブイ字回復した。不謹慎だが、「人の不幸は密の味」とはよく言ったものだ。
「そういえば、明日休みだよね?」
一変、嫌な予感。
「朝は歩いていくけど、夜は雨予報だから車で迎えに来て!」
「う、うん」
(え、マジ?)
明日は仕事実行日。早く終わらせないと。

調布飛行場からやや四角張った、斬鉄剣でスパッと切ったら食パンになりそうなドイツ製の小型飛行機に乗り込み、大島へ向かう。
大島。とても遠いイメージであったが、実際は飛行機だと離陸から二十五分。思っていたよりもはるかに近い。因みに船だと横浜から六時間位かかるそうだ。そして飛行機からの景色は格別に素晴らしかった。ボーイングとかエアバスといったジェット機は、雲の上、いわゆる成層圏を飛ぶのに対し、このドイツ製のプロペラ機は、対流圏と呼ばれる雲の下を飛ぶ。しかも、翼が胴体の上に付いていて、どの席からも景色がよく見える。そして最も気に入った点は、通路を挟んで全席窓際の一列シートであること。これなら、この前新幹線で味わった、ぽってり奥方の隣になる心配がない。食パン、気に入った。
今日は九月二十三日。秋分の日は昼と夜の長さが等しくなる日。要するに、あの世とこの世が最も近くなる日ということだ。「仕事には丁度良い日」と勝手に解釈しよう。
 
仕事は計画通りに終わった。布村はしっかりと、左手に船窓みたいな丸い腕時計を付けていた。
「仕事は終わった。死体は建物の陰に隠した」
「わかりました」
死体は、山元の手が掛かった誰かが回収することもあれば、警察に見つけさせることもある。どちらにしても、警察から俺に手が及ぶことはない。稀に裏ルートでの「仕返し行為」があるくらいだ。
しかし、いつも疑問に思うのだけど、「回収」という判断が下った場合、どうやって回収をしにくるのだろう。特に今回の場合は離島だ。ま、俺には関係ないか。とりあえず、今日は妻のお迎えがあるし、最終便は乗り過ごすわけにはいかない。遅刻は論外だ。スマホの破壊は後にしよう。
この後……予期せぬ事態に。

「こんばんは。藁科小雪はいますか?」
やれやれ。何とか間に合った。
「藁科さんの旦那さんですか?いつもお世話になっております、サブリーダーの磯辺と申します」
やや自黒で美人。本当だ。磯辺さん、というのか。全然ツンツンしていないじゃないか。
「奥様なら向かいのコンビニにいます」
「わかりました。行ってみます」
軽く会釈をすると、ポケットからスマホが落ちた。そして磯辺さんの顔が一瞬で変わった。

*     *     *

資材置き場から歩いて三十分。何とか最終便に間に合った。食パンこと、ドイツ製の十九人乗りのプロペラ機に乗り込む。この手の小型機の特徴は、コックピットと客室の間にドアがない。要するに、客席からパイロットが見えるのだ。迫力ある計器類も見えるので、航空オタクならドキドキワクワクする光景だと思うが……この便は明らかに雰囲気が怪しい。
第一に、今日は祭日で便数が増えているにもかかわらず、客は俺一人。第二にパイロット二人がつけているサングラスが怪しすぎる。安物、とは言わないが、これではまるで「あぶない刑事」だ。おっと、こんなこと妻の前で言ったら、確実に突っ込まれるな。「歳がバレるわよ」って。
サングラスは、パイロットなら確実にこだわりたいアイテム。「なんでパイロットになろうと思った?」って聞くと、「カッコいいから」とは、実際に答えなくとも、本音はそう思っているに違いない。サングラスはその象徴の一つ、と俺は思う。飛行機は操縦できるとしても、恐らくこの二人はパイロットを普段の職業としてはいないだろう。
しか~し、今日の俺には「妻のお迎え」という最大のミッションが残されている。どんなに怪しくても、この最終便に乗らなくてはならない。
 
予想通り、パイロット二人は俺にとっての敵であるようだ。恐らく、布村と何らか繋がりがあるのだろう。案の定、離陸後に右側の副操縦席に座っていたパイロットが、「抵抗しないように」と指示をしてきた。そして最後部の座席には、正規のパイロットと思われる二人が動かなくなっていた。
「調布に着陸後は北側の駐機場へ」何やら、着陸後の話をしている。そして俺を縛ろうと、縄とガムテープを持って横にきた。
(ニヤリ)
「チュウオウコミューター 一〇六 テンマイルサウス スリーサウザン ウイズ インフォメーション ブラボー」
「チュウオウコミューター 一〇六 リポート ファイブマイル」
俺はパイロット、いや、敵二人を始末し、左側のコックピットに座っている。そう、今この飛行機の機長は俺だ。というワケで、慣れない飛行機の操縦に集中。
チェックリストはこれか。エアースピードチェック、ギアダウンスリーグリーンチェック……。
飛行場が遠くに見えてきた。あれがPAPI(進入角指示灯)か。調布は四つじゃなくて二つなんだな。白白、高い、ということか!スロットル少し絞って……赤赤!?低くなった?スロットル!あ、スピードが……。
「チュウオウコミューター一〇六 クリアツーランディング」
無線どころじゃないっつーの!
「神、さ、ま」
「チュウオウコミューター一〇六 タクシーツーエプロン」

一ヶ月前、山元から事前に飛行機のフライトシュミレーターが渡されていた。あの「食パン」こと、ドイツ製の飛行機のデータと共に。そして、最小限の操縦技術、無線技術の習得も指示されていた。実際、飛行機の操縦なんて、最小限で片付けられるようなものではないが、俺の手に掛かれば最小限で充分だ。以前、ヘリのフライトシュミレーターを渡された時は、さすがに焦った。「着陸はいい、離陸と巡航だけ習得してくれ」
実際、着陸は必要なかったが、もし作戦に狂いが生じたらどうすんだよ。その点、着陸の方法が分かっている今回は、まだ気が楽だった。
「練習用の操縦桿が、実際とかなり違ったぞ。渡されたものはヘリ用とほぼ同じやつじゃないか」
「あまりにもスムーズじゃ、つまらないと思いまして。それに飛行機専用のものは高価なんです」
よく見れば、珍しくふざけたメガネのかけ方しやがって。気に入らない。
「そういう問題じゃないだろ。おかげでもっと高価な飛行機を壊す所だった」
無神論者の俺が、最後は神頼みしてしまった。今回は少し焦った。
「壊さなくて良かったですね」
おまえにしては、いいツッコミだな。
「飛行機から出たら『後は自力で何とかしろ』も、無責任だとは思わないか」
「簡単に逃げられたでしょう。この時、地上スタッフは、まだ何も知らないはずですから」
「そうかもしれないが」
「そういえば、昨日夕方のニュースは見ましたか?」
「銀次が現れたらしいな」
「都市伝説です。と言いたい所ですが、最近私は、銀次は実在するような気がしてきました」
銀次。桃太郎電鉄というゲームのキャラクターで、「スリの銀次」という名前で登場する。この「銀次」が現れると、プレイヤーの億単位、時には一兆円以上もの所持金がごっそりせしめられてしまうので、銀次の登場曲(シルバーダンディ)が流れただけで、恐怖のあまり、思わずリセットボタンを押してしまう人もいるそうだ。実際、俺も押したことがある。
手段こそスリではないが、ハッキングにて政治家や社長を狙い、せしめる金額が莫大といった理由から、裏社会ではいつしかこの類の事件が起きると「銀次がでた」と噂されるようになった。しかも、狙う相手は全員、悪い噂が絶えないヤツばかり。俺たちの間では、銀次はヒーロー扱いされている。
しかし、実際は誰一人としてこの人物を見たことがないため、「都市伝説」との見方が強いとされている。テレビで報道されている通り、「海外のハッカー集団」の可能性の方が、圧倒的に高い。
「法律で裁くことができない悪いヤツをこらしめる。もし、本当に存在するのなら、銀次は我々の鏡です」
「そうだな、是非一度会ってみたい」
今日は珍しく山元が饒舌だ。意外と小雪と話が合うような気がしてきた。
「そういえば、私に何か聞きたいことがあるのでは」
「ああ、ある」
よく分かっているじゃないか。そう、今回の最大の謎を、今ここで聞いておきたい。
「あの女は何物だ?」


第三章  鍼


「命を狙われます。一ヶ月間気を付けてください」
「命を狙われる?期間限定?」
「一ヶ月間です。逃げ切るか」
「逃げ切るか?」
「……」
おいおい、殺っちゃいけない相手なのか。まあいい。適当に逃げ切ってみせるさ。

*     *     *

「転職しようと思うの」
昨日、本社にサダ坊から退職願が送られてきたらしい。そして磯辺とかいう薬剤師も、昨日本社へ移動になったと、朝の朝礼で、エリア部長から説明があったらしい。
「何だかとても嫌な予感がするの」
妻の「嫌な予感」は当たっている。自黒の薬剤師は俺が殺った。本社へ移動、か。
「話は変わるが、友人からバイクを譲ってもらえることになった」
実際はバイク屋で買うのだが、本当のことを話したら「そんなお金どこから出たの?」なんてことになるのは目に見えている。自由になる金は、一応それなりに持っているが、意外と使い方が難しいのだ。
「保険と税金はお小遣いでやりくりしてね」
「あ、やっぱり?」
「当たり前でしょ」
月々のお小遣いは三万円、年二回のボーナスのお小遣いは四万円。バイクに関する諸々の経費は、お小遣いでやりくり命令。実は俺が殺し屋だっていうこと、バレているんじゃないの?って、この時マジで思った。実際、バレていたら大変なことになるのだが。

丸いライト、黒いタンク、そして単気筒エンジン。昭和生まれの俺にふさわしいバイクはこうでなければならない。
上の子が十七歳。結婚して一年後にこの子が生まれたので、結婚生活は十八年ということになる。子供の歳プラス一年。結婚記念日に「何年目だっけ?」ってなった時に、頼りになる公式だ。俺にとっての、バイクのブランクは十七年。子供が生まれ、「危ないから」という妻の一言で手放した。
恐らく今の方が体力も筋力も、二十代の時よりも衰えているので、より危ないとは思うのだけど、妻は今、この点を全く問題にしていない。今現在の判断基準は、俺の体よりも「バイクの維持費」ということになる。
「急いで結婚し、ゆっくり後悔せよ」ということわざを聞いたことがある。自分に当てはめて考えると、少なくとも後悔はしていない。ただ、他人事で考えると、何となく分かる気がしないでもない。考えた末に出した結論は、大事なのは距離感。今は十八年前と距離感が違うだけなのだ。
かくして俺は、しっかり妻の許可を得た上で、十七年ぶりにバイクを手に入れた。パイク屋のつなぎを着た店員に「十七年ブランクあるので心配なんだよ」って話したら、実は俺みたいな例は多いらしい。要は若い頃乗っていたけど、結婚や子育てで一旦手放し、子育てが落ち着いた四十代にまた乗り出す、と言ったパターン。店員は「中年ライダーが今のバイクブームを支えていると言っても過言ではない」と熱く語っていた。俺にもし文才があったら「バイクブームと結婚」なんていう論文が書けそうだと思った。

「ちょっと走ってくる。夕方までには戻るから」
実は大学時代に、一緒にバイクの免許を取った友人からツーリングのお誘いを、今年の年賀状で受けていた。
「ようやく子育てがひと段落つきました」
我が家よりも一足早く子供が自立したそうだ。
今日はバイクに乗っている時間よりも、お喋りの時間の方が長くなりそう。

「フロントブレーキが甘いので見てほしい」
バイクを購入して一週間。ややブレーキが甘いと感じたので、購入したお店とは別のバイク屋に持って行った。
「フルード液交換した方がいいですね。あと、チェーンもやや伸びているので、交換をお勧めします。在庫はあるので、承諾していただければ、一時間でやりますよ」
中古バイクの品揃えはほぼなし。修理やメンテナンス中心の小さなバイク店といった印象。バイクを購入した、全国チェーンのバイク屋に比べたら、店内は狭くて暗く、「一見さんお断り」的な雰囲気があるが、決してそうではない。店主と思われる、やや色黒で割とハンサムな男の受け答えは、雨上がりの青空のように爽やかだった。
「お願いします」
「よく気付きましたね」

*     *     *

夜の港に行くと、酒井がワンカップを片手に、岸壁に並べた三本の竿を見つめていた。
「いかがですか?」
「いや、俺は車だからこれにしておく」
駐車スペース近くの自動販売機で買った缶コーヒーを、ポケットからだした。
「背が高く、やせ型でやや色黒」
「丘(おか)。鍼屋(はりや)で間違いないと思います」
「鍼?尖ったあの鍼か?」
俺は無意識に目を数秒間閉じた。無論、深層心理がそうさせた。
「藁科さんも、そろそろ転職した方がいいと思いますよ」
「鍼か?」
「一撃必殺。一瞬で決着がつきます」
「鍼は……やめておこう」
焼き鳥も食べられないような俺には、絶対に無理な転職先だな。
「そういえば、酒井も転職するとか言っていなかったっけ?」
「そのうち教えますよ」

*     *     *

丘が俺のバイクをいじりだした。
「勘だ」
「まさか、僕が逆に監視されていたとは」
「多少の隙はあったと思うが」
丘は首を二回振った。
「勘です」
気のせいか、丘はやや微笑んだように見えた。
「勘違いしないでください。『殺る必要はない』ということです」
「見極めるには、まだ二週間早いだろ」
「……」
今度は明らかに笑った。
「たった今、二週間分の情報を仕入れた所です」
丘は俺が殺った女と、何らかの繋がりがあったのだろう。恋人?元恋人?幼馴染?そしてあの時、あの女は何故俺を殺そうとした?あのスマホには何が?
「藁科さん、お願いがあります」

街を抜け、曲がりくねった山道を行く。ハンドルを握る丘は、顔色が悪いように見える。
「エサを撒いておきました」
車中では、全く言葉を発しなかった丘だが、車のエンジンを止めた所で、ようやく一言。
目の前には巨大な工場がそびえていた。テレビコマーシャルでお馴染みの製薬会社だ。そういえば、妻はこの子会社がチェーン展開している薬局で働いている。
工場の裏手には古い小屋があり、不自然な扉が付いていた。
「ここから中に入ります」
扉は小さいが、目立たない、という訳でもない。むしろ、ピエロのようなイラストが描いてあり、目立つ。それは毒ガエルの如く「触ると危険」と、遠回しに言っているようにさえ思える。一番の特徴はドアノブ。位置が低すぎだ。そしてドアノブがあるにもかかわらず、スライド式。鍵はない。
「足元に気をつけてください」
足元はぬかるんでいて、靴は既に泥だらけだ。中に入ると、目の前にはガスメーターや水道メーターらしきものがずらりと並んでいた。暗闇の中を進んでいき、突き当たったら、カニ歩きで更に横に進んでいく。数メートル進むと丘は止まった。
「ここが入り口です」
丘がしゃがみ、足元にあるマンホールを持ち上げた。
「狭いので気を付けてください」
「腹が出ていたらアウトだな」
「ギリギリ大丈夫のようですね」
本当にギリギリだ。万歳をする格好でロープを掴み、下に降りていく。二十メートル位はあるだろうか、思ったより深い。そして広い空間に着いた。奥には明かりが見える。
薄明りから確認する限り……ここはまるで刑務所。しかも、相当な時代を感じる。錆びた鉄格子が並んでいるが、奥の明るい部屋のみ、鉄格子が金属特有のソリッドな輝きを放っている。
「何なんだ、ここは?」
「わかりません。不自然な位、全く記録がありません。恐らく……この会社の歴史そのものでしょう」
この会社の歴史。俺や丘、ついでに酒井なんかとは比べ物にならない位、薄汚れた影がありそうだ。
「このルートは脱獄用だと思います」
「脱獄者は、ピエロの絵が上手のようだな」
「ここから中が見えます」
部屋の明かりが丘の顔を照らす。やや色黒で、顔立ちがはっきりしたイケメンだ。「もし妹がいたなら……かなりの美人だったに違いない」

できるだけ近くまで行き、部屋を覗く。すると、少し傾いたベッドに男が一人寝かされていた。
「サダ坊!?」
ベルトで固定されている男は、間違いなくサダ坊(佐田)だった。自主都合での退職。はじめからおかしいとは思っていたが。
「知合いですか」
「妻と同じ職場で働いている薬剤師だ」
「馬鹿なやつだ」
「何があった?」
「ヤツは香のストーカーだ」
妻は恋仲だと思っていたようだが、ストーカーだったか。可哀そうだが、俺の頭の中のモヤモヤが晴れた。
「既に瀕死の状態に見えるが」
「ここは人体実験室。違法薬物の適正濃度を調べているのです」
「そういうことか」
「香は結婚してすぐ、夫をこの実験で殺された。そして、これから現れるヤツを追っていた」
いつの間にか、丘の顔は怒りで震えていた。
「自分の手を汚して、体を売って」
「……」
「勘違いしないでください。僕は、あなたを恨んでなんかいませんよ」
「香さんには相棒はいたか?」
「最近行方不明になった、布村という快楽殺人鬼の相棒、いや、恋人のふりをしていました」
「そうか」
「屈辱だったはずです」

部屋の扉が開いた。そして、白衣を着た研究者らしき姿の人間がぞろぞろ入ってきた。
「!?」
心臓が止まりそうになった。
「やはり知っているのですね」
「全員知っている」
研究者らしき御一行は、絶対権力者と、盲目的に従う信者といった構図に見える。俺が知っている、和気あいあいとした雰囲気は微塵もない。
「これから殺されるのか」
「そうです」
「何を撒いたんだ?」
「縛られている男の神経を一本切っておきました」
丘は自分のうなじを指さした。
「鍼で?」
丘はゆっくり頷いた。俺は一瞬、鳥肌が立った。
「どちらにしても、あのストーカーはもう助からない状態でした。薬の効果を散々調べられ、そして殺されます」
中から声が聞こえる。
「こいつが例のストーカーか。あの量で、なぜ容体が急変したのか?まあいい。まったく、馬鹿なやつだよ。俺の女にちょっかいを出すなんて」
丘は視線を下に向けた。俺もここから長々と続いた、男の聞くに堪えない卑猥な言動から、耳を塞ぎたくなった。

「気分が悪そうだが」
「山道で少々酔ってしまったようです」
「それは致命的だな」
「藁科さん、僕はここから先へは行けません」
「分かった」
自黒の女、いや香さんのスマホには、本人にとって命に代えても知られたくない、屈辱的な内容が記録されていたのだろう。スマホの破壊指示……そういうことだったのか。
それと……悪かったな、サダ坊。

家に帰ると、妻がビール片手に出迎えてくれた。
「転職が決まったの!」
「そうか、それは良かった」

第四章  氷柱


「喧嘩で拳を使ってはいけない」
「……」
「父さんとの約束だ」
俺は十歳の時、人を殺した。
理由は単純だ。大人達がよってたかって、お姉ちゃんをいじめたからだ。

お姉ちゃんといっても、実の姉弟ではない。公営住宅の、我が家の隣の部屋に住む、五歳年上の幼馴染。母親と二人暮らしで、一人で留守番をしていることが多く、いつしか、父親と二人暮らしの俺と、一緒に遊ぶことが多くなった。もっとも、実際は「遊ぶ」というよりも、「遊んでもらう」だったが。
「今日は大希の好きなホットケーキ作ってあげる」
「やった~」
お姉ちゃんというよりも、俺にとっては母親に近かったかもしれない。俺はお姉ちゃんが大好きでしょうがなかった。

そんなお姉ちゃんが、チンピラに襲われた。初めは怖くて何もできなかったが、お姉ちゃんの上着が破かれ、泣き出した時、突然スイッチが入った。気づいたら、体が勝手に動いていた。
「三人とも気絶している。大希とゆうこちゃんは家に帰りなさい」
お姉ちゃんは父さんの「気絶」という言葉を信じていたが、あれは気絶なんかじゃない。死んでいた。三人とも俺が首の骨を折ってしまったのだから。
「誰にも言ってはいけない」
「はい」
俺とお姉ちゃんは、揃って返事をし、家に帰った。翌日、何事もなかったかのように、俺とお姉ちゃんは学校へ、父さんは道場へ出かけた。
「大希、昨日はありがとう」
「何もされなかった?」
「おかげさまでこの通り大丈夫よ。大希、強いのね」
「いつも父さんに鍛えてもらっているから」

父さんは空手道場を経営していた。空手道場と言っても、対象は子供で、昼間は託児所同然であった。当然俺も道場兼託児所?にいる時間が長く、ここで父さんから空手の手ほどきを受けた。
父さんは昔、空手ではなく柔道をやっていたそうだ。柔道がものにならず、空手に転向したかというと、そうではなく、柔道も強かったらしい。高校一年生の時には、上級生を差し置いて県大会で優勝した位強かったそうだ。
そして、これを機に、高校ではちょっとした有名人になり、顔も割と整っていたことから、女子からモテたらしく……当然のようにこれをよく思わない、上級生四人組から体育館の裏に呼び出された。
弱い者いじめ、いわゆる「いびり」が始まり、やがて殴る蹴るがはじまり……しかし、それを理由に、正当防衛とばかりに反撃した父さんが難なくやっつけてしまい、これを体育館のテラス席の窓から傍観していた、当時空手部の顧問をしていた担任の先生の目に留まった。
と、当時傍観していた張本人、現在県の空手連盟で理事をされている、元担任の先生から教えてもらった。今思えば、上級生からの殴る蹴るが始まった段階で「止めろよ」と思うのだが、先生からすると、面白いことになりそうな胸騒ぎがして、止めに入れなかったらしい。「弱きを助け強きを挫く」が、今まさに目の前で起ころうとしていたそうだ。
「弱きを助け」なら、この時弱い立場の父さんを(実際は弱くはなかったが)、あなたが助けないと辻褄が合わないのでは、と思ったが、あまりに熱く語っていたので、この時は突っ込むのをやめた。先生からすると、この喧嘩は、どんな空手の試合なんかよりも、見ごたえがあったそうだ。
翌日、先生から「素直に空手部に入るか、ボコボコにされてから空手部に入るか、どちらかに決めろ」と迫られ、父さんは素直に空手部に入る選択をしたそうだ。
昭和五十年代って、上級生も理不尽だが、先生の方がその数倍理不尽だということが分かった。

俺には母さんはいない。物心ついた時からいなかった。写真もないので、当然顔は知らない。
俺が九歳の時、「亭主持ちの女に手を出し、お前を生ませた」と、酒で顔を赤くしながら、あの先生が俺に話してくれたことがある。更に「裁判になって金を相当取られた」なんてことも話しだした。父さんから直接聞いたわけではないので、本当かどうかは分からないが……そんなことは俺にはどうでもよかった。
俺にとっての父さんは、真面目で優しい父親である。一度思い込むとまっしぐら、一直線にしか進まない、正に「ナウシカのオウム」のような一面もあったので、俺の中では、父さんが逆にこの性格を母さんに利用され、騙されたのではないか、ということで無理やり決着を付けていた。ただし、「金を相当とられた」はトラウマで、俺は少々貧乏性に育った。

父さんの名前は藁科仁。会社勤めではない、個人事業主の父さんには、ネクタイを締めて仕事をするような友人はいない。よって、周りからは常に「ジン」と呼ばれていた。なので、てっきり俺も「ジン」が本名かと思っていたら、ある日「ヒトシ」が本名であることが分かった。俺十九歳、バイクの運転免許証を取る際、市役所で住民票を取った時のことである。
あの時は「ああ、そうえばそうだった」なんて軽く言っていたが、当時は世界がひっくり返る程驚いた。実の息子が、十九年間父親の本名を知らなかったのだ。
そして当の本人、あまり表には出さないが、この名前を相当気に入っている。近所の、顔が知れている居酒屋にあった、父さんのボトルキープのタグには「ジン」と書いてあるのを俺は知っている。小説家にでもなったら、ペンネームは間違いなく「ジン」で決まりだろう。その場合の苗字は……知りません。
 
季節はめぐり、俺は十八歳になった。未だに「裁判沙汰……」がトラウマになっていて、俺は学費が安く、更に自転車で通える、地元の国立大学に何とか入った。好き嫌いが割と激しい俺だが、勉強はオールラウンダーだったのが功を奏した。もっとも、トラウマが原因で、知らず知らずのうちに、苦手科目を克服しただけかもしれないが。何だかんだ、男手一つで育ててくれた父さんを俺は尊敬している。
裁判沙汰。実際の所はどうだか分からないが、実は父さん、それほど金には困っていない印象でもあった。サラッと「別に私立でもいい」と言っていたし、車もスポーツカーに乗っていた。ロータリーエンジンがどうとか、意外とマニアックな車らしい。
選んだ学部は法学部。本当は海洋生物に興味があり、その方向に進みたい希望があったが、地元の国立大学には生物系の学部はなく、「ならば」と、学費が安い文系の学部を選んだ。法律を学ぶ学部。これについては特に意味はない。俺にとっては大学卒の資格を得ればそれで充分だった。大学を出る目的は一つ。それは親のエゴ。父さんは、「大学は行けよ」と、以外にも、そういう見栄だけはあるようだったからだ。なので、大学に受かった時は大層喜んでくれ、入学式にも来てくれた。小中高大。初めてのことだった。
 
「藁科君は部活に入った?」
「いや、まだ決めていないし、入るかどうかもわからない」
大学に入ると、すぐに友達ができた。名前は矢田。矢田は出席番号で俺の一つ前。今までは、俺の前には必ず「渡辺」か「渡部」がいて、大抵「出席番号が最後じゃないなんて」って驚くのだが、今回は違った。矢田は常に出席番号は後ろから二番目が定位置らしく、「渡辺」も「渡部」も「藁科」も同じらしかった。そんな矢田は、高校時代弓道部に入っていたとのことで、大学でも続けるそうだ。
陸上部に入っていた俺は、矢田とは逆に、もう陸上を続ける気はさらさらなく、何か新たなことをやりたいと思っていた。因みに陸上部は、俺の意思で入ったわけではない。当時、ハンドボール部に入っていたのだが、一年生の時の体力測定で、百メートル走を十一秒前半で走り、そのまま陸用部へ勝手に転部させられた。……そういえば、どこか父さんの「空手転向ストーリー」に似ていなくもない。親子ってこうも生き方が似てしまうものなのか。せめて、女関係は似たくない。
陸上ではインターハイにも出たりして、それなりに活躍したが、もう充分。百メートルを走ることに、もうそれほど興味はない。何か新しいことをやりたいと思った。
そんな矢先での、矢田からの誘い。そして見学。俺の世界観は一瞬で変わった。弓道部、女子率高すぎ!
運がいいのか悪いのか、見学時の説明を適当に聞いてしまい、そしてそのまま何かの書類に名前を書かされた。
「とりあえず、これに名前と学部を書いて。名前はフルネームで」
俺の記憶が確かなら、「入部届」の文字は、矢田の右手で隠されていた。

「いきなりサボるなよ」
「え?」
「一昨日、入部届にちゃんと名前書いただろ」
「あの書類、入部届でしたか」
この時初めて、ようやく矢田が既に弓道部の手先であったことに気づく。
「今日からでいいから、四時半に道場へ来い」
後日談だが、この先輩、俺の反応見て、笑いをこらえるのに必死だったらしい。

どうやら俺は、弓道部の罠にまんまとはまったらしい。因みにこの手の罠、我が大学では、部活やサークル勧誘「あるある」だ。
しかし、実際の所、俺はもう既に自分の中では入部を決めていた。ただ、男子校出身の硬派な俺には、「女子率高め」という動機があまりにも不純であったため、ためらいと恥じらいがあった。
「俺は矢田の誘いで見学にいってやり、無理やり名前を書かされ、仕方なく入部した」
完璧なストーリーだ。ナイス、あるある!

大学生ライフは半年が過ぎた。いつの間にか、同期のカップルが一つ、二つと増えていく。もう、こういうことは共学出身のやつらには敵わない。「恋愛は早い者勝ち」だと学んだのがこの頃であった。
しかし、俺も指をくわえてこまねいていたわけではない。教育学部の、キラリと光る一番星・湯川さんに、密かに想いを募らせていた。しかし当の湯川さんは、こともあろうに、矢田に片思いしており、夏に一度振られるも、それでも尚想い続けている、といった情報を同期の女の子達から聞いた。
「やり切れない気持ち」半分、どこかでこれを「告白しなくてもいい理由」半分。いや、自分の中では「告白しなくてもいい理由」を九十パーセント以上にしていたのかもしれない。ただ・・・・・・自分の中で曖昧にはぐらかしただけだった。
しかし、何故に矢田。ヤツは確かにいいやつだ。性格は温厚で、人当たりがいい。ただし、体育の先生に「のんきくん二号」と呼ばれる位だらしない。やつはアパートを借りて一人暮らしをしているのだが、部屋がめちゃくちゃだ。整理整頓の「せ」の字もない。そして、一時間目の授業は大抵寝坊でいない。なので、昼休みに俺のノートをコピーすることが、ヤツの日課になっていた。
授業に出席しなくても何とかなってしまうのが我が大学。実習のない文系学部は特にそうなのだが、一年生の前期に一コマだけある体育だけは、どうにもならなかった。逆に言えば、テストがないので出席さえすれば簡単に単位を取得できるのだが、これが一時間目にあるがためにやつは落とした。
「のんきくん二号」
「いません」
点呼にてニックネームで呼ばれてしまうほど顔を覚えられてしまっては、代返もできない。
因みに「のんきくん二号」というニックネームについてだが、四年前に「一号」がいたらしい。一号はそのまま退学したが、矢田は後期に選択科目の「スキー合宿」を取ることにより、特別に一年生のうちに単位を取り返すことができた。「合宿なら寝坊での欠席はない」と踏んだ、体育の先生の優しさだった。
「二号は将来大物になる」
体育の先生はこう言っていたが、俺にはこの時、到底そうは思えなかった。唯一、大物だと感じたのは、湯川さんを振ったことだけだ。

「藁科君、一緒にオートバイの免許とらない?」
「うん、いいよ」
いきなり誘われ、しれっと答えたが、一瞬にして心臓の音が聞こえる状態になっていた。
実は湯川さん、バイク好きのお兄さんがいて、自分もいつか乗りたいと思っているようであった。俺はそのことを知っていたので、さして興味はないにも関わらず、興味があるふりをしていた。
こうして、二人の「教習所デート」が始まった。
「大希すごいね、一発合格しちゃって」
「一本橋さえ渡り切りされすれば、ルカも合格だよ。次回の検定、俺も応援に行くから頑張って!」
「ありがとう!合格したら絶対お祝いしようね!」
湯川遥(ゆかわはるか)。俺は何時しか彼女を「ルカ」と呼んでいた。

「かんぱーい!」
ルカの住むアパートからすぐ近くにあるカフェ。古い教会のような内装は、落ち着きがあって、居心地がいい。何よりルカと二人で夕食を共にしていることが、俺にとっては夢物語だ。同時に気になることも。「矢田のことは今、どう思っているのだろう?」
「免許が取れたら、ここでお祝いしようと思っていたの」
「すごく雰囲気がいいお店だね。料理も美味しい」
「実は私ね、味音痴なんだ。お兄ちゃんからは『不(ふ)グルメ』って言われていたくらい」
「ルカのお兄さんすばらしいね!とても分かりやすい表現だ。あ、実は俺自身も『不グルメ』だと思う」
少しホッとした。俺もそこまで味にこだわらない。どちらかというと、お腹いっぱいになればそれでいいと思っている人種だ。
「見ていればわかるよ、大希は学食でカレーばっかり食べているし」
「から揚げ定食も食べるぞ」
「週一回でしょ」
 驚いた。まさかここまで観察されているとは。ちょっとストーカーチックな所があるんだな。でも、ルカにストーカーされるのは悪くない。
「俺は逆にルカは味にうるさいと思っていたよ」
「え、どうしてそう見える?」
「学食で見かける度、毎回違うものを食べている気がする」
「それはただ、色々なものを食べてみたいだけ」
「色々?」
「色々なものを食べたい、色々な所に行きたい。色々な世界を見たい」
「それでバイク?」
「そう、その通り!バイクがあれば、全て叶ってしまう気がして」
分かる気がする。ちょっとアプローチは違うが、今まで俺の中での長距離の移動手段は、公共交通機関一択であったが、これからはこれにバイクが加わる。バイクは時刻表を気にしなくていい。どこでも行ける。自由だ。おまけに車種を選べば燃費もクルマに比べて格段にいい。貧乏性の俺には実に都合がいい。
「『不グルメ』の私が美味しく食事をするには、何といっても雰囲気。それをバイクに乗って見つけにいくの」
「かなり強引な持論だけど、俺は賛同するよ」
「このお店がスタート地点」
「スタートに立ち合えて光栄です」
俺は「一緒に見つけに行きたい」と言いかけたが……どうしても言えなかった。

俺とルカの関係は何も変わらないまま、やがて三年生になった。そして弓道部恒例の夏合宿にて、事件は起こった。
一週間の夏合宿の締めくくりはコンパ。これは三年生の追いコン(追い出しコンパ)も兼ねている。因みに文系の学部はそうでもないが、理科系の学部は、三年生の後期から各研究室に振り分けられ、卒業研究という難題が課せられ、かなり忙しくなるらしい。よって、我が大学の部活やサークルの大半は、三年生の夏に引退となる。
そして今でこそ、十代の飲酒は厳禁であるが、この時代はほぼ関係なかった。俺も一年生の時は十八歳という未成年にもかかわらず、先輩たちに散々飲まされた。そして三年生、しかも弓道部の部長に昇格したにもかかわらず……今度は後輩達に囲まれて飲まされた。
「藁科先輩、ちょっと話があります」
コンパは宴もたけなわを迎えていた。何故か部長になっていた俺は上座に座り、一年生の女性部員の酌を受けていたはずだが、いつの間にか一年生はどかされ、二年生女子部員が目の前にズラリと並んでいた。そして皆、目が三角になっているように見えた。
「さっきエリになんて言ったんですか」
そういえばさっきビールを注ぎに来た。なんて言ったっけ?
「『もう最後だね』って言いませんでした?」
「あ、言った」
何かいけなかったか?
「エリの気持ちを知っていて言ったんですか?」
「!?」
そういうことか。「俺はルカしか見ていなかった」なんて、この時言えるはずもなく、弁明に苦しむ。
「気づかないなんてありえないですよ。先輩はもっと思いやりがある人だと思っていたのに」
「ごめん、本当に気づかなかった」
謝る必要なんてどこにもない。でも、とりあえず謝る。

俺のシュンとした表情を見て信じてくれたのか、とりあえず「超鈍感」の烙印は押されたものの、この場はしのいだ。しかし……どうしたものか。男子校では絶対にありえない悩みだ。
一つ下のエリちゃんは、俺にずっと片思いをしていたらしい。そして何度も告白のチャンスを伺ったが、言い出せず。そしてこの夏合宿のコンパで、同期女子全員の後押しを受け、何とか俺の横に辿りついたものの、俺による痛恨の一撃「もう最後だね」。そのまま引き下がり、ついには泣き出してしまったそうだ。
「後輩諸君よ、人を鈍感扱いする前に、俺のルカへ対する気持ちに気づけよ」って心の中で思った。

あの夏合宿から二週間が経った。相変わらずこのカフェの雰囲気は最高だ。でも、心なしか、いつもと見え方が違う。鮮やかなはずのステンドグラスが、今日はモノクロに見える。
「エリちゃんと付き合おうと思う」
「ようやく決心したんだね。もう、見ていて可哀そうで」
「全然気づかなかった」
「馬鹿じゃないの。鈍感すぎよ」
いつもと見え方が違った。ルカの表情もまた。

一か月後、ルカに彼氏ができたことを人づてに知った。相手は矢田ではなく、別の男だった。
「馬鹿じゃないの。鈍感すぎよ」
今更、真意を確かめることなんてできない。俺にとって一生忘れることができない、重い一言になってしまった。

*     *     *

卒業後、ルカは結婚し、子供を授かった。正確には卒業前に授かっていた。結婚式はやらなかったようだが、送られてきた年賀状に印刷された三人笑顔が、幸せであることを物語っていた。
対して俺はというと、エリちゃんとは卒業を待たずに別れた。振ったのではない、振られたのだ。
夏合宿の後、エリちゃんを水族館デートに誘った。そしてセオリー通り、帰り際「付き合ってくれないか」と言い、出来レースの如く、付き合うこととなった。まだ、本気でエリちゃんを好きになっていなかった俺としては、その後「好きになろう、好きになろう」と必死に頑張った。何をどう頑張ったのかは自分でもよく分からないが、結果、三ヶ月でエリちゃんのことをむちゃくちゃ好きになっていた。しかしその刹那、「好きな人ができた」とあっさり。この後、とりあえず俺は一ヶ月間落ち込んだ。
そんな時、すぐに駆けつけてくれたのが「のんきくん二号」こと矢田。俺の失恋を、何かのお祝いと勘違いしたかのように、金粉入りの酒を片手に、我が家にズカズカとやってきた。この時俺は、本気で「一族根絶やしにしてやろうか」と思った位腹が立ったが、こいつのペースに流されるがまま酒を酌み交わしていると、これはこれで、矢田なりの慰め方であることに気づいた。
矢田は酒が得意でない。飲み会でもサワー一杯が関の山だ。そんな矢田が、酔いつぶれるまで俺に付き合ってくれたのだ。何を話したわけでもないが、俺はこの時、エリちゃんのことを、完全に忘れることができていた。
ルカが矢田を好きになった理由が、この時分かったような気がした。
 
大学を卒業した俺は、二回目の新年を迎えた。運良く、大手企業に就職することができ、仕事にも慣れ、責任のあるポジションも任され始めた。そして何といっても、小雪という、一つ年下の恋人もできた。順風満帆、と言っていい。
ただし、気がかりなことも一つ。去年は送られてきたルカからの年賀状が、今年は未だにこない。子供が一歳になったばかりだろうし、色々と大変なのだろう、と思うようにした。
二月のある寒い夜、突然携帯が鳴った。相手はルカだった。
「ちょっと会えない?」
「どうした」
「会ってから話したい」
「分かった。今から行く」
 
内容は予想外のことであった。ルカは半年前に離婚し、現在一歳の娘さんと二人で暮らしているとのこと。原因は元旦那によるDV。
離婚し、親子二人で穏やかな時間を過ごし始めたのも束の間、今度は元夫がストーカーとなり、時折復縁を迫って家に押しかけてくるそうだ。勿論、復縁する気は微塵もないと言っていた。
警察が「はいはい」と、簡単に動いてくれるとは思えない。離婚して半年。俺への相談も、半年、いや、それ以上の時間躊躇したに違いない。そして今日。相当追い込まれていたのだろう。いくら鈍感な俺でも、それ位は分かる。
まさかルカがこんな目に遭っているとは……思いもしなかった。
「何かあったら、すぐに連絡しろ。絶対ためらうな」
「ありがとう」
俺がルカを守ってやる。

一週間後。とうとう最悪の事態が起きてしまった。
携帯が鳴った。ルカからメールだ。画面を見ると、文字はない。画像のみが送られてきた。まずい。
「父さん、車借りる」
「どこへ行く?」
その問いかけに答える間もなく、俺は車に乗り込みエンジンをかけた。「間に合ってくれ」

大学近くの公園。車で来たのは初めてだった。駐車場はすぐに見つかり、車を停めるとともに全速で走り出す。目指すは公園中央にそびえ立つ展望台。送られてきた画像、その場所だ。
真っ暗な公園を全力で駆け抜ける。段差に躓き、転んでズボンが泥だらけになってしまうが、構わず走り続ける。そして展望台が見えてきた。
「大希!」
ルカは元夫に喉を掴まれ泣いていた。
「おまえ、男がいたのか」
掴んでいたルカを離し、怒りの矛先を俺に向けた。どうやら間に合ったようだ。
「ルカ、走れ!」
ルカは走りだしたが、すぐに止まって心配そうに振り返る。と同時に、男の拳が俺の顔めがけて飛んできた。間一髪でかわし、カウンターを入れようとしたところで、父さんとの約束を思い出す。
「やめて!」
俺は為す術なく殴られる。かろうじて首を傾け、衝撃を和らげるも、そろそろ限界だ。鼻が折れたのか、鼻血が止まらない。
「父さんごめん」
俺は鳩尾に一発拳を放り込んだ。
「うっ」
男は白目をむき、力なく後ずさりし、展望台にぶつかって、そのまま仰向けに倒れた。そして音もなく……落ちてきた氷柱が、男の右目を貫いた。
「!?」
俺の横に、男が立っている。父さんだった。
「俺との約束、破ったな」
「気絶させるだけのつもりが」
「お前の判断は間違ってはいない」
「死んだのか」
「ああ、死んだ」
俺と父さんが壁になり、ルカには見えない。不幸中の幸いだった。
「お前は彼女を連れて帰れ。後は俺が何とかする」
「彼女じゃない。こいつの元奥さんなんだよ」
「一つ忠告しておく。亭主持ちの女には関わらない方がいい」
「父さんに言われると重いな」
父さんは天を仰いだ。「やっぱり知っていたか」と、言わんばかりに。
「でも父さんとはちょっと違う。ルカは『もと』奥さんだ」
「同じだ」
「もうちょっと車を貸してくれ。ルカを家まで送りたい」
父さんは頷いた。
「大希、これからはお前の判断で拳を使え」
「分かったよ、父さん」

数日後、ルカから電話があり、あの日以降ストーカー行為はなくなったとの報告があった。当たり前だ。ヤツは死んだのだから。
「ありがとう」
「俺はほとんど何もしていない」
「そんなことない。あんなに顔腫らしちゃって」
「格好悪い顔見られちゃったな」
「ううん、最高に格好良かったよ」
電話の向こうでルカが笑った気がした。そして今、教習所デートをした、あの頃の匂いが……一瞬した。
「一つ教えてくれないか」
「何?」
「むか~し、俺がルカを好きだったことって、気づいていたの?」
「うん」
「だよね」
「私も大希が好きだったこと、気づいていた?」
「!?」
時が止まった。思考回路も停止した。心臓も一瞬止まった。多分。
「私の愛する、まだ一歳のコハルちゃんに手がかからなくなったら、ツーリングに誘ってもいい?」
「ずいぶん先だな」
「楽しみにしてる」
「俺もだ」

本人によると、「ルカが矢田を好き」という俺の中での通説は、入部してすぐの第一印象を、女子会にて軽いノリで答えてしまい、これが大げさになってしまったのでは、とのことだった。そして振られたことについては……そんな事実はそもそもないらしい。
俺とルカは、多分ボタンを掛け違えた。そして・・・・・・俺に未来を変える力はなかった。

*     *     *

この事件の一ヵ月後、父さんは行方をくらました。
「藁科ジンさんの息子さんですか?」
「お前は誰だ」
俺の前に、突然黒縁眼鏡をかけた男が現れた。そして父さんの名前を口にした。
「ジンじゃない。ヒトシだ」
「大事なお話があります」

家に帰ると、ポストにメモが入っていることに気づいた。
「ごめん、しばらく家には帰れない。俺のかわりに山元を助けてやってほしい」
間違いない。父さんの字だ。
しばらく帰れない・・・・・・薬を飲まされて、小学生になったとでも言いたいのか。バーロー。
俺は父さんの正体を……十歳の時に気づいていた。
「大希、これからはお前の判断で拳を使え」
オーケー父さん。これから色々な世界を見てみるよ。


第五章  毒


俺の本業は家電メーカーのサラリーマン。「わかっちゃいるけどやめられない」のサラリーマンだ。そして我が社はなんと、日本で一握りとされる東証一部上場企業に含まれているそうだ。俺にはどうでもいいことなのだけど、妻にとっては重要らしい。「結婚を決めた理由の一つ」と言っていた。気持ちは分かる。娘に好きな人ができ、もしそれが、表の仕事が無職の「殺し屋」だと分かったら、俺は絶対反対だ。
そんな娘に胸を張って「パパはサラリーマンなんだぞ」って言えるよう、そろそろ引退したい所なのだが、この世界は「一身上の都合」で辞めることが、多分できない。というより、辞め方がよく分からない。どうしたものか。
「藁科さん、ご馳走様でした」
今日は職場の女性二人に誘われてしまった。実はこういう機会、俺は他の同年代社員よりも多い。自由になる金が同僚よりも圧倒的に多い、ということで、酔っぱらうと大盤振る舞いしてしまうことも理由の一つと言えるが、表の仕事も裏の仕事同様、真面目に働いている証拠だと信じている。
女性は良く見ている。仕事が出来るか否か、ではなく、人を。よく言われるが、俺は職場の女性陣から見て、他の男性社員とは違う、ミステリアスな一面があるそうだ。そういえばその昔、動物占いではユニコーン、動物じゃないじゃん。戦国武将占いでは千利休。茶人じゃん。寿司占いではあがり。寿司じゃないじゃん。「俺ってミステリアス~」って、勝手に思ったことがあったが、それとはまた違う意味でミステリアスなのだとか。理由は一つしかないこと位分かっているが……それでも、できれば「殺し屋」はそろそろ辞めたいと思っている。
本日誘ってくれたのは、同じ職場で働く、渡辺夕子さんと飯島菜々美さん。二人とも正社員ではないが、仕事は俺の十倍はできる。渡辺さんなんて、我が職場に入ってきて二か月足らずなのだが、既に事務作業チームのリーダー的存在だ。お酒を一滴も飲めない点が、自分でも「残念な点」と言っているが、気配りもでき、話題も豊富。俺的には、ちょっと年上な所も相まって、公私ともに頼りになる存在だ。
片や飯島さんは、我が職場のマドンナといいますかクイーンといいますか天使といいますか。とにかく、こんな飲み会がバレた日には、職場、いや、会社の菜々美ファンから殺されてしまいそうなレベル。まず、彼女とラインでやり取りしているだけで、既に危険だ。そんな彼女の様子が……何やらおかしい。
「藁科さ~ん、飲み足りな~い」
「じゃ、私は帰るね。後はお二人で楽しんでね」
おいおい渡辺さん、一体どういうつもりだ?
「ウェ~イ!」
飯島さん……「うぇ~い」って何?

あれから一ヶ月が経った。結婚してこのかた、考えたこともなかったが、いや、ほんの少しは考えたことはあったが、何も準備することなく、その時は突然やってきた。そして、未だに自分の中で、全く整理できず。何これ、何なの?一言「モヤモヤ」。
よく眠れない、毎日寝不足だ。しょうがないから山元に睡眠薬出してもらうも、それでも眠れない。眠くならずに、何故か半日前後の記憶喪失になってしまった。はっきり言って病気だ。
今年一年、漢字一字で表すとしたら、間違いなく「罪」。もっとも、俺の今までの人生、「罪」の一字どころでは済まされないのだが。まだ今年、三ヶ月近く残しているが、早くも決定。一体、この物語はどういう結末に向かうのだろうか。乞うご期待!
(いったい何を言っているんだ、俺は)

*     *     *

「罪もない人間を殺してしまった」
「どうしました?これまで数えきれない位、殺ってきたでしょう」
「それは正当防衛だ」
「今回もそうでしょう」
「突然だが、この仕事を辞めるにはどうしたらいい?」
「私にはそれを決める権限がありません」
「できれば、次の仕事を最後にしたいのだが」
「ご家族は奥様とお子さん二人、でしたっけ?」
「脅しているのか」
「いえ、心配しているのです」
山元のパソコンのモニターに目をやる。
「釣りはやるのか?」
「いいえ」
権限がない、とはどういうことか。山元の先には、依頼者しかいないと思っていたのだが。更に別の仲介者、いや、更に俺の知らない親玉がいるのだろうか。それとも、ただの「思わせ振り」か。いつもならば「俺には関係ない」で片付けてしまうが、今日は気になって仕方がない。
「次の仕事はこの女です」
メモを受け取り、一通り目を通した。
「あまり気が進まないが」
「それでは頼みました」

「私で良かったんですか~」
「美味しい江戸前料理、お酒飲み放題。もう、飯島さんしか思い浮かばなくて」
「奥さんはダメだったんですか~」
表情がかなり意地悪になっている。痛い、痛すぎる一撃。
「飲めないんです」
只今、人間ドック前で禁酒中。なので、半分本当だ。超偶然だが。
「フフッ」
若干狼狽えながら至高のビールひと口。ビールには何も罪はないのだが、この瞬間だけは、目を背けた先の恵比寿様が歪んで見えてしまった。
前回の酒の席にて、二次会で二人きりになった際、どうやら俺は屋形船について熱弁をふるったらしい。「死ぬまでに一度乗りたい」そして誘ったらしい。
あの大罪の後の、二人で浅草発屋形船。もう、危険な臭いしかしない。この場に及んで「タダで帰してしまっては逆に失礼」って思うのは、男として間違いなのだろうか。もう、なるようになれ!
そんな一世一代の大勝負の最中、俺の記憶は途絶えた。

「ここは?」
「お目覚めが早いわね」
俺は少し傾いたベッドの上で、体を皮のベルトで固定されていた。
「最近、似たような場所を見た」
「あなただったのね、ネズミは」
「飯島さんはどこですか、渡辺さん」
少しハッとした表情を見せたが、すぐに冷静さを取り戻し、ゆっくり眼鏡とカツラを取った。
「鈍感なくせに、どうして分かったの?」
「最近、AB型の考えていることが、少し分かるようになってきたんだ」
「よ、よくわかったわね、私の血液型」
「まあね」
「それではもう一度同じ質問。どうして分かったの?」
「何のこと?」
「毒入りの串焼きのことよ」
「そういえば、この前の飲み会、串焼きを残したかもな」
「とぼけないで」
「とぼけてなんかいない」
「ま、いいです。これから藁科さんには、我が社の伝統儀式を体験してもらいます」
渡辺さんは、右手に注射器を持っていた。注射器は、俺にとっては串焼きよりも数十倍嫌いな代物だ。咄嗟に逃げ出したい衝動にかられたが、少しだけ我慢。この際、色々と聞きたいことがあるので聞いてみよう。
「死ぬ前に教えてほしいことがある」
「いいわ、特別に話してあげる」
渡辺さんは要点をまとめ、わかりやすく簡潔に話してくれた。残念だ。仕事が出来る、素晴らしい女性だと思っていたのに。
「話は終わりよ。そろそろ始めるわ」
「これでも?」
俺は難なく皮のベルトを外した。そして、一瞬で仕事を終えた。

「仕事を終えた。回収しておいてくれ」
串焼きに毒が入っていたことは……俺は気づいてはいなかった。串焼き、俺がこの世で最も嫌いな食べ物の一つ。危険な夜、だった。色々な意味で。
 そして、気になる点一つ。この仕事の依頼はどこから?「渡辺夕子を気絶させろ」。
俺には関係ないこと、か。

*     *     *

「おはよう」
何といったらいいのか。
「ごめん、いきなり寝ちゃったんで、仕方なくここに運んだ」
ストレートに書く。ここはラブホテルだ。飯島さんは、屋形船の仮眠室で眠っていた。渡辺さんがそうしてもらうよう、屋形船のスタッフさんに頼んだらしい。要は「殺さなかった」ということだ。
「もうお昼?」
衣服を隈なくチェックしている。そしてそれを終えると、小さな目で俺を見つめた。
「何もなかったの?」
はい、残念ながら。


第六章  悟り


「家族四人で旅行だなんて、久しぶりね。いつ以来かしら」
俺たち家族は、久々に四人で旅行に来ている。急きょ全員の休みが重なることが分かったのが三日前。週末ということで、どこも満室かと思ったら、意外にも多少選べるくらいの「空き」はあった。このご時世、旅館業も大変だ。
旅館の選択は、全て小雪が担当した。俺が選ぶと、百パーセントお化けがでてもおかしくないような「ひなびた温泉宿」に決まる。温泉宿と言えばこうでなければいけないと思うのだが、小雪と子供たちは、ある程度の快適性も求めているらしい。せめて部屋には、トイレ位はあってほしいそうだ。
そんな小雪が選んだ宿は、最近リニューアルしたばっかりの旅館とのことで、宿泊料金もリーズナブルだったらしい。
「百合(ゆり)は剣道、悠翔(はると)はテニスと、二人とも部活が忙しいみたいだし、正に奇跡だな」
つい最近までクソガキだと思っていた我が子二人は、いつのまにか高校二年生と中学一年生。あっという間に成長し、気づけばほとんど手がかからなくなった。
特に高校二年生の百合は、手間がかからなくなったどころか、家事やらなにやらの戦力としても活躍しはじめ、時には妻の友人のような存在にもなり、そっと小遣いを渡すと、俺の代わりに、浦安のテーマパークに連れ出してくれる。
今の俺に言う資格があるのかどうか……ちょっと心が痛い所だが、妻と一緒に過ごす時間は大切だとは思うも、混雑が大嫌いな俺としては、この成長は非常に嬉しい。たまには女同士でたっぷり遊んで、二人で俺の悪口を言い合って、日頃のストレスを発散してほしいと思う。
一方、中学一年生の悠翔は、俺に似て群れを好まない性格で、やや反抗期に入ってきた感がある。ただし、何故か家族旅行は大好きのようで、今回、家族四人の中で一番楽しみにしていたようであった。別に何をするわけでもない。滞在先のホテルの部屋で、いつもと同じくスマホでユーチューブを観ているだけなのだ。「わざわざ旅行にくる必要ないんじゃないの?」って言ってやると、「こういう気休めがいいんだよ」って言い返してきた。俺は何も言い返せなかった。同時にこれを聞いた時、俺は「クソガキ」と思っていた悠翔が、将来大成しそうな気がしてきた。勿論、俺とは違う道で。
何だかんだ、二人の子供はいい方向に成長している。ひとえに妻のおかげだ。
「新しい職場はもう慣れたの?」
「お陰様でもうだいぶ慣れたわ。職場の皆さんはとても良い人達ばかりだしね」
「それは良かった」
「でも、時給が下がっちゃったから、頑張って上げていかないと」
「我が家のクソガキ二人、まだまだ金食い虫だからな」
「あ~あ、宝くじ当たらないかな」
一応、汚い金でよければ一等当たった位あるぞ。「ジャンボ」ではなく「ミニ」だが。
思っただけで言葉にすることができず、小さな溜息が一つ出た。
夕食は部屋食。これも小雪のこだわった点。最近いつもバラバラに夕食を食べているので、家族四人、周りの目を気にせず、四人揃ってのんびり食事をしたかったそうだ。俺も部屋食大賛成だ。ひなびた温泉宿は、部屋食が基本だ。
料理は可もなく不可もなく、といったところ。ただ、割り箸に「矢田旅館」と書かれていた点が少々引っ掛かった。ここは江沢旅館なのに。
「すいません、この割り箸には何で『矢田旅館』って書いてあるの?」
「以前、割り箸を切らしてしまった時に、急きょ入れたものだと聞いております」
そういうものなのか。ま、たかが割り箸だし、特に気にすることもない、と初めは思ったが、何故か気になって仕方がなくなる。
「そういえば、矢田はどうしているかな」
学生時代の友人、「のんきくん二号」こと矢田は、ご両親が確かこの辺りで旅館を経営していると聞いたことがある。彼は長男なので、順当にいけば、そろそろ継いでいる頃ではないかと思った。
夕食後、俺以外の三人はウノをやりだした。フロントで借りてきたらしい。俺は丁重に、仲間になることを断った。

ウノよりも、夜風に当たりたい気分だったので、俺は散歩を選んだ。
宿を出て歩くこと五分。見覚えのある横顔を見つけた。
「あれ、矢田?」
「え、何でここにいるの?」
それはこっちのセリフだ。何故ここに矢田?
「久しぶりだな!変わってないな」
「藁科もな。むしろ若返ったようにも見える」
自分でも、実際の年齢よりも若い自信はある。色々と若返るような出来事も最近あったし。しかし……矢田は実際かなり変わっていた。というより、老けた。俺たち人間は、生物である以上、仕方のないことなのだが。
「どうした、こんな夜更けに。しかも何だか浮かない顔をしているように見えるが?」
「色々あってな」
矢田はここから少し離れた所にある、温泉旅館(矢田旅館)の支配人をしているそうだ。支配人とは、会社で言ったら社長。矢田が社長とは出世したものだ。因みに俺はというと、表の顔では「係長」ということになっている。「社長」と「係長」。もう、かなり差が付いてしまった。
二年前、先代の父親の急死により、この地位を継いだそうだ。苦労の末、ようやく支配人として軌道に乗ってきたころ、SNSか何かで「幽霊が出る」とかの噂が立ち、一旦客足が遠のいてしまった。ようやく噂が忘れ去られ、客足が戻ってきたと思ったら、今度は「食中毒が出た」と、根も葉もない噂が広がり、また客足が遠のいてしまったそうだ。
「もう、やめようかな」
冗談には到底聞こえない。俺はかける言葉が見つからなかった。職種は違うが、俺も仕事をやめたいと思っているからだ。

*     *     *

「ちょっと調べてくれないか」
「何でしょう?」
旅行から帰ってすぐ、俺は山元の病院へ向かった。あの「割り箸」が引っ掛かって仕方がないからだ。
「江沢旅館を調べてくれないか」
割り箸の説明も付け加えて、山元に伝えた。
「実はあの界隈で『江沢』はあまりいい噂を聞きません。わかりました、詳しく調べます」
「頼む」
返す刀で「いい噂を聞かない」とは。俺の勘は当たっているのか。

数日後。
「ビンゴです」
「どういうことだ?」
山元の調べによると、現支配人の江沢は、先代の長男で、矢田と同じく親の急死により、引き継いだのだが、これがかなりの「ろくでなし」で、二年前、正に同じ温泉街の複数の旅館に対し、幽霊騒ぎをでっち上げた張本人なのだそうだ。
「そんなことをしたら、温泉街全体が風評被害を受けるのに」
「そんなことも分からないから『ろくでなし』なのです」
「違いない」
「そして去年、食中毒をだしてしまった」
「ひょっとして、矢田旅館になすりつけたのか?」
「はい。その時、幽霊騒ぎを全く不振に思わなかった矢田旅館が『なすりつけの標的』にされました」
やっぱり、のんきくん二号は変わっていない。
「営業再開後、矢田旅館の割り箸を調達して、これを客に出し、しばらくしてリニューアル。リニューアル以前は矢田旅館の系列を装うことで、なすりつけたそうです」
「ひどいな」
「許せませんね」
驚いた。普段、感情を表に出さない山元の眼鏡が、ここまでつり上がるとは。
「私に考えがあります」
「名案だ」
「まだ何も言っていませんが」
「俺にはわかる」
「一つ頼まれてください」
「勿論だ」

俺はとあるホテルのロビーにいる。山元によると、今日夜九時、ここで江沢は反社会組織の幹部と会うらしい。そこを俺が写真におさめる手はずだ。
「たくさん撮ってきたぞ」
「助かります」
「マスコミに売るのか?」
「いいえ、マスコミに売らない約束で、嫌がらせをやめさせます」
「優しいな、そんなことで本当にヤツはやめるのか?」
「脅し方次第で簡単にやめると思いますよ。恐らく彼のIQはどんなに多く見積もっても三桁はないでしょう」
「そんなもんか」
三桁前後って普通だと思うのだが、山元からしたら、ダメダメなのだろう。
「そして、マスコミには売りませんが……」
「売りませんが?」
「裏社会には売りまくります」
「そうすると、どうなる?」
「私の推理が正しければ、面白いことになります」

二ヶ月後、江沢旅館は突然廃業した。裏情報によると、江沢が関わる口座から、全ての金が一瞬で消えたらしい。裏社会では「銀次がでた」と、大いに盛り上がったらしい。「らしい」が二回。そう、俺はこの時、大変残念なことに眠っていた。

*     *     *

釣り座は、右側ミヨシ(前)から、酒井、俺、エモリと並んだ。恐らく、酒井以外は全員敵だと踏んでいる。
仕事を辞めたい旨の話を山元にしたら、すぐにエモリから、この誘いが来た。親玉?敵?エモリは山元と繋がりがある。そして恐らく、二人の関係は良好ではないだろう。まあいい。そこは俺には関係ない。
釣り座(席)は通常、仲間内恒例のくじ引きで決めることになっている。そこで、酒井に細工を二つ頼んだ。その一つが、釣り座のくじ引き。釣り座の並びは、俺が決めた。
酒井も実は、できれば殺し屋を辞めたいと思っているようであった。そして、スリに転職したいと打ち明けてくれた。日本の法律にて、犯罪と呼ばれることからは離れないらしい。ただし、ヤツのことだ。最低限、相手はしっかり選ぶだろう。
 
エラメことエモリはサダ坊を実験室で殺った張本人。違法薬物を扱う中心人物でもあることは、疑いの余地はない。渡辺さんが全て話してくれた。そして渡辺さんの仲介者はエモリ。ヤツは山元と同じ仲介者だ。いや、同じではない。スピリットがあまりにも違いすぎる。
一週間前に山元と会った時、診察室のパソコンに見慣れないアイコンがあった。エラメの「釣りブログ」のアイコンだ。山元は、自身の左側に座る俺に対し、画面右端上側に配置していた。そして俺の「釣りはやるのか?」の問いに対し、答えは「いいえ」
「おい、アイコンに気づけ」と、この時、聞こえない声で言ったに違いない。そして俺は気づいた。長い付き合いだ。それ位俺にはわかる。
仲介者の殺害は危険だ。特にエモリは。どんなに悪いやつだとしても、例え依頼があったとしても、山元も簡単にゴーサインは出せないはずだ。
「これが最後の仕事。大一番だ」
そういうことだろ、山元。

エラメ。これは「ヒラメ」と「エモリ」を合わせたものなんかじゃない。エラメ=「エ」ン「ラ」イト「メ」ント。和訳すると「悟り」。エラメは悟、重盛悟だ。
妻の働いていた、薬局の責任者欄にも同じ名前が書かれていた。初めは「シゲモリサトル」だと思ったが、そうじゃない。「エモリサトル」だったんだ。重盛は妻の元上司、薬局のエリア部長。
薬局との繋がり、そして違法薬物との繋がり。そして渡辺さんの証言。
香さんの夫を実験台にし、香さん自身も貶め、香さんに付きまとったとはいえ、サダ坊の命も軽く扱い……一体何人もの善良な命をドブネズミの如く扱ったのだろうか。自分の私腹を肥やすために。
百パーセントではないが、俺の頭の中で散らかっていたパズルのピースは、ほぼはまった。
何より、重盛は……俺を殺そうとしている。

*     *     *

夜の港に行くと、酒井がワンカップを片手に、岸壁に並べた二本の竿を見つめていた。
「いかがですか?」
「いや、今日もやめておく」
俺は今日、バイクでここに来た。なんとなくそんな気分だった。
「何かあったのですね」
「罪のない人間を殺った」
「それは、我々にはよくあることでしょう」
山元に話した時と、ほぼ同じ返答だった。しかし、言葉の重さが違う。彼もまた、幾度か同じようなことを経験してきているはずだ。そう、確かによくあることなのだ。
ただ、今回は重かった。香さんの死は完全に俺のミス。正当防衛なんていう一言では済まされない。あの時、すぐにスマホを破壊していれば防げたのだ。
「俺は、この仕事を辞めようと思っている」
「方法は?」
「エモリさんを殺る」
酒井の顔に緊張が走った。そしてしばらく、沈黙が続いた。酒井はどの程度、俺のおかれた状況を理解したのだろうか。それとも、既に分かっているのか。
「興味津々です」
「お願いがある」
俺はコインロッカーの鍵をポケットから取り出し、酒井に渡した。
「俺にもしものことがあったら、これを妻に渡してくれないか」
酒井は軽く頷いた。俺の覚悟を全て受け取ってくれたと確信した。
「自分にもお手伝いをさせてください」

「今日はどこかで食べてね」
プレミアムフライデー。略してプレ金。「今日はちょっと遅くなる」と、妻にラインで伝えたところ、帰ってきた答えがこれであった。プレ金なので、普段一皿百円が九十円になるらしく、今晩は三人で回転寿司に行くらしい。そういえばそんなキャンペーンがあったような気もするが、我が職場では、そんな気配は皆無であった。
「プレミアムな金曜日か。今日は何かプレミアムなものでも食べようかな。そういえば俺が『最後の晩餐』で食べたいものって、一体何だろう?」
縁起でもないことを考えだしたら、ふと明暗を思いついた。
派手な看板とレトロな雰囲気。何よりバーカウンターの脇に置かれたジュークボックスは、確実にインスタ映えしそうなくらい存在感がある。まるでトップガン……マーヴェリックではない方のラストシーンで使われていそうな店だ。
ここは先日、ルカに連れてきてもらった、アメリカンなカフェ。
「大希なら気に入ってくれると思って」
ルカが、俺が気に入ると思って、連れてきてくれた店だ。メニューはこの際どうでもいい。プレ金の晩餐はここに決めた。
とりあえず「メニューはこの際どうでもいい」なんて思ってはみたが、店に入るなり、あることを思い出した。
この前ルカと一緒に来た時は、ポークスペアリブを注文したのだけど、エッグベネディクトというメニューが無性に気になったことを思い出した。今日はこれを頼んでみよう。
「すいません、エッグベネディクトとノンアルコールビール」
「私も同じものをお願いします」
「!?」
「今日はお一人?」
「そう」
「ここへ一人で来るなら声かけてよ」
声の主はトップガンのヒロイン・チャーリーではない。ルカだった。
店がトップガンなら、演出もトップガン。ラストシーンだったかどうかは忘れてしまったが、こういうシーンがあったような気がする。
「なにニヤニヤしているの?」
「いや、登場の仕方があまりにもかっこいいと思って」
ルカはちょっと照れ笑いをした。目尻に少ししわが寄った所に二十年前との違いを感じたが、それでも素敵な笑顔には変わりはない。
「私も実はここのエッグベネディクトを食べたいと思っていたの」
そう言うと、スマホをバッグから取り出し、いじりだした。少しして返信があったらしく、一回頷いた後、スマホをバッグに仕舞った。
「コハルにラインをしたの。今日は食べて帰るね、って」
「いいのか」
「もう二十歳よ。それに今日は彼と会うんだって」
「心配だな」
「全然。ただし、悪い男には気を付けるように、とだけは言ってあるよ」
今度は、いたずらっぽく笑ったが、俺は笑えなかった。不可抗力こそあったが、そもそもルカにとっての悪い男は俺が殺した。
「そういえば、何で俺がここにいることが分かったの?」
「可愛い大希のバイクちゃんが目立つ所に置いてあったからよ」
「今日はバイクで来て大正解だな」
トップガンでマーヴェリックが乗っていた「ニンジャ」というバイクには少々劣るが……いや、カッコよさ的にもエンジンの排気量も大分劣るが、とりあえずバイクでここに来たことで、これも映画のワンシーンにかすっている。ちょっと嬉しい。
「ルカもバイク?」
「まさか。もう寒いし、私のバイクちゃんは春まで冬眠」
「もう歳だし、お互い無理しない方がいいかもね」
「そうね。毎日若い子を見ていると、自分も若い気になっちゃうけど、実際体がついていかないことが多くて」
 大学の教育学部を卒業したルカは、中学校の教員になり、国語を教えているそうだ。ただでさえ世間では「ブラック」と言われる教員の仕事。女手一つで、子供を育てながらここまで続けてきたのには恐れ入る。
 そう、ルカは教員。学校の先生だ。またトップガンの話題に戻してしてしまうが……あちらは「教官とパイロット」、こちらはというと「先生と殺し屋」。二人の関係性、という視点で比べると、「レア度」的には、なんとなくトップガンに肩を並べたような気になった。
「大希、知ってる?『今日が一番若い日』だって」
 ルカ先生の授業が始まった。
「一日後には一日歳を取る、一週間後には一週間歳を取る、一年後には一年歳を取る。今この瞬間が一番若いのよ」
「そうだな。その通りだな」
 中学生の俺ならピンとこなかったかもしれないが、今こうして人生の折り返し地点にたどり着いてみると、「なるほど」と思う。
「なので、できないことを年のせいにしてはいけないと思うの」
「バイクのこと?」
「だから今、反省しちゃった」
「安全を考えたら仕方ない」
「そういう考え方なら仕方ないけど、って思うけどね」
何か言いたげだ。前回会った時からそんな雰囲気があったが、今日は打ち明ける決心がついたようだ。
「何か始めたの?」
「私ね、今、小説を書いているの」
「し、小説?」
思いもしない方向から矢が飛んできた。

「色々なものを食べたい、色々な所に行きたい。色々な世界を見たい」
「それでバイク?」
「そう、その通り!バイクがあれば、全て叶ってしまう気がして」

 こんなような会話を、二十年以上前にしていた記憶がある。この内容から、小説の「し」の字も思い浮かばない。
 そもそも小説って、読むことはあっても、書くものという認識は、俺にはない。よくよく考えると、原稿用紙とペン、もしくはパソコンがあれば誰でも書ける。しかし、なかなかそういう発想には至らない。少なくとも四十年以上生きてきて、俺は初めて「小説を書く人」に出逢った。そういえば若い頃、ルカのアパートに何度かお邪魔させてもらったことがあったが、「○×△□殺人事件」とかいう小説が、本棚にズラリと並んでいた記憶がある。
「ひょっとしてミステリー小説?」
「そう。よく分かったね」
「何でまた?」
「コハルが中学生になった頃、子育てが大分楽になって、大変お世話になった「子育て」に関する雑誌に何度か投稿したの。そうしたら、三年前に、その雑誌のウェブ版が立ち上がるとのことで、担当の編集者さんからライター契約の打診があって。ちょっと迷ったけど、やってみることにしたの。元々文章を書くことは好きだったし」
「実際、国語のプロだしね」
「そういえばそうね!私、国語のプロだったね。忘れてた」
「そして子育てのプロにもなった」
「子育ては行き当たりばったりだったけどね。でも、書く方はライターのお仕事のおかげで、色々と勉強になったの。人に読んでもらう文章を書くって、コツがいるんだな、って」
「でも、投稿していた時点で既に才能があったわけだよね。ライターの打診があったわけだし」
「ま、一応プロだしね」
「あれ、『忘れてた』って、言ってなかったっけ?」
「まあまあ」
「でもすごいね。文章書いてお金を稼ぐなんて」
「原稿料は微々たる額だけど、『プロの文筆家』という肩書は憧れもあったので、初めはちょっと嬉しかった」
「初めは?」
「今もちゃんと自負しているわよ。でもね、同時に昔から大好きだった『小説』というものも、書いてみたいと思うようにもなったの」
「その発想が俺には分からない。一言でいえばルカらしい」
「昔から書いてみたい、っていう想いはあったのだけど、書き方が分からないことを理由に、書かずじまいだったの。だけど、思い付きで、それこそ勢いだけで書き始めたら、書き方なんて二の次だっていうことが分かって、気付いたら原稿用紙三十五枚分の短編が書けて……うまくできたかどうかは別として、これが楽しくて。それがきっかけ」
「原稿用紙三五枚で短編?俺には充分長編に思える」
「特に決まりはないみたいだけど、八十枚までが一般に短編と呼ばれるみたい」
「そうなんだ」
「そしてね、次に書いたのが六十六枚。更に今書いているのが、二百二十枚位になる予定」
「予定、ということは途中?」
「そう、途中」
 二百二十枚なんて、書き写すだけでも相当な時間がかかるだろう。これを、でっち上げのストーリーを考えなら書く。気が遠くなりそうだ。
 「今ね、楽しくてしょうがないの。たまに壁にぶつかってしまうけど、ひょんなことからヒントが見つかって克服できたりして」
「ひょっとして、今壁にぶつかっているとか?」
「実はそう」
「やっぱり。二人でバイクの免許を取りに教習所へ通っていた頃、一本橋を何度も失敗していた時って、何だか逆に楽しそうだった」
「目標があるって幸せなことだよ」
繰り返しになるが、ルカらしい。でも、やっぱりルカと小説はどうしても結びつかない。
「小説はね、自由だっていうことが分かったの。ちょっと前までは専門の講座を受けて、しっかり特別な勉強をしないと書けない、って思っていたのだけど、私は何も特別なことはしていない。ただ、長く生きて、色々な経験をして。無駄な努力をたくさんして、失敗もたくさんして。そして今、それらを財産に空想を描いているだけ。でも、それでいいと思うようになったの」
「分かった!」
「何?聞かせて」
「小説とかけてバイクと説く。その心は」
「その心は?」
「自由だ」
 ようやく繋がった。
「すごい、ちゃんと繋がってる!」
「ちょっと強引だけど」
 ルカは少し俯き、そして満面の笑みで顔を上げた。
「大希エライ!」
「え、いきなり何?」
「イメージが湧いてきた!立ちはだかっていた大きな壁がなくなって、水色の空が見える!」
「そ、それはよかった」
 ルカの目に輝きが増した。よく分からないが、俺はルカの役に立ったようだ。
 「書き終わったら、是非読ませて」
 輝いていたルカの目が……俺のこの一言で曇ってしまった。
「それはだめ」
「どうして?」
 少し間を置き、「大希が主人公だから」と、その理由を照れながら明かした。
ミステリー小説の主人公。職業は探偵か?刑事か?とりあえず殺し屋、ってことはないだろう。
「ひょっとしてヒロインはルカ?」
 何気なく聞いてみたら、ルカの顔がみるみる赤くなった。どうやら当たったらしい。そしてルカの表情から察するに……小説の中の俺とルカは恋愛モードのようだ。まあ、「でっち上げの世界」ということなら全く問題ないでしょう。
「それじゃあこうしよう。一冊の本になって、芥川賞を取ったら、本屋で買って読んでいい?」
「内容からして、直木賞の方かな。って、絶対無理だから」
「決めつけはよくない。俺からしてみれば、歳のせいにするよりもよくない」
「そうだね、大希の言う通りだね」
「じゃあ、ルカが直木賞取るのを楽しみにしているよ」
「直木賞じゃなくても……もし、この『空想の物語』が、一冊の本になるようなことがあったら、真っ先に大希に届けるから」
「絶対だよ」
「うん」
 そして、自分に言い聞かせるように、こう締めくくった。
「絶対最後まで書き切る」
 俺とルカが座るカウンター席に、スモークサーモンとアボガドのエッグベネディクト、それとノンアルコールビールが運ばれた。
「ルカの直木賞に乾杯!」
「それ、恥ずかしいからやめて」
 ルカは常に、相手に気を使っているように見えるが、いつだって人生の主人公を真っすぐ歩いている。たまに失敗してしまうけど、それでもすぐに前を向いて歩きだす。そんなルカが、俺は大好きだ。ルカが書いた渾身の一冊、是非読みたいと思った。
 そのためには・・・・・・俺は生きなければならない。


第七章  鯛


あれからというもの、何を食べても美味しくない。「美味しいもの食べないなんて生きている価値ナシ」。こんな価値のない毎日、いつまで続くのだろう。
夕子さんは一ヶ月前に行方不明になり、そして藁科さんは先週海に投げ出された。死体はまだ回収されていないけど、さすがにあの藁科さんでも、十一月の冷たい海に投げ出されてしまっては……。
でも、不思議とどこかで生きている気がする。あいつ、何故か、体がオリンピックの水泳選手並みに鍛えられていた。あれは尋常じゃない。それに、何かトラブルがあっても、樹海のように底知れない余裕があって、そしてちょっぴり神秘的な人だった。ご家族は……私に藁科一家を心配する権利は、ないわね。

十二月の港。思ったよりも寒くない。それでも、スキーに行く位たくさん着込んできた。スキーなんて、やったことないけどね。
体が震える。寒いわけじゃない。ものすごく緊張している。
「菜々美さんですか?」
「あ、はい」
「おはようございます。酒井です。皆さんもう到着しています。紹介しますのでついて来てください」
「おはようございます。重盛(エモリ)と申します。皆からはブログネームのエラメと呼ばれています」
「おはようございます。お魚釣りは初めてですが、よろしくお願いします」
「簡単な釣りなので気楽に楽しんでください。酒井君が面倒見てくれるだろうし、おばちゃん・・・・・・あ、いや、女性も二人いるから安心して!」
「おばちゃんで~す!トイレに行きたくなったら声かけてね!前のトイレ、今日は勝手に女の子専用にしちゃっているから」
「心強いです。よろしくお願いします」
正直、酒井さんより心強いかも。
「藁科さんの件、大変なことになってしまって。今日は彼の遺言で集まってもらいました」
 遺言?まだ正式に捜査を打ち切った訳ではないじゃない。何でそう決めつけるの?重盛とかいうおっさん、気に入らない。
 
今日は船を一艘貸し切って釣りをするとのこと。これを釣り業界では「仕立て船」と言うらしい。さっき遺言とか供養とか言っていたけど、まだ生きているかもしれないのに。私はまだ希望を捨ててはいないわ。

この集まり、実は酒井さんから誘われたの。突然酒井さんが目の前に現れ、「藁科さんの奥さまですか」って聞いてきたので、思わず「はい」って答えてしまった。何かの作戦だったのかしら。それとも本当にそう思っていたのかしら。思わずちょっと笑ってしまった。
そして、よく分からない説明をされるがまま、勢いで「はいはい」と言ってしまい、何となくフィナーレと思われる場面で、少し大きめの声で「はい」。今日に至ったワケなのです。
参加することを簡単に決めてしまったけど、相当危険な集まりだということは、酒井さんと会った瞬間から理解していた。ひょっとしたら、私も藁科さんと同じ運命を辿ることになるかもしれない。
でも、じっとしてなんかいられない。だって、このままじっとしていたら……いつまで経っても、ご飯がまずいままじゃない!
この一件の真相、そして藁科さん自身のこと。私は知りたい。

それにしても、釣り人って皆さん、お金持ちが多いのね。停っている車は高級車ばかり。軽自動車なんて私だけね。酒井さんの車だけ、ちょっとランクが落ちるかな。藁科さんと同じようなエコカーね。ちょっとだけ信用しても良さそうな気がしてきたわ。そういえば、藁科さんもサラリーマンにしては意外とお金に余裕があったような。ホント、あいつはいったい何者だったのだろう。目の前に現れたら、シュワシュワを飲みながら問いただしてやらないと。今度は私がおごってあげるから。

「それでは恒例のくじ引きをやります。あ、菜々美さんは初めてなので、両サイドは私と酒井君で努めます」
よかった。とりあえずエコカーの酒井さんが横にいれば少し安心。
「困ったことがあったら何でも言ってね」
よかった。おばちゃん、ではなくて、女性二人のうちの一人、あるじょんぬさんが、酒井さんのお隣になったみたい。船でのおトイレ。重要よね。
「今日は来てくれてありがとうございます」
「いや、逆にありがとうございます。毎日ご飯がまずくて」
「え?」
「あ、いや、何だか居ても立ってもいられなくて」
しかしこの人、何で私のマンションの前に現れたのだろう。住所調べるにしても、私は飯島だし。
「ごめんなさい、一つ訂正させてください。実は私にとっての藁科さんは、ただの職場の上司なんです」
「はい、知っています」
あいつ、話してないだろうな。いや、今日は余計なことを考えるのはやめよう。もう、覚悟は決めたのだから。
「ところで、今日は何を釣るのですか?」
「そういえば、肝心なことを話していませんでしたね。今日はハナダイ、という魚を釣ります」
「タイ?」
「そう思ってもらってもいいと思います」
酒井さんがハナダイ釣りについて、詳しく説明してくれた。ハナダイは、見た目はタイ(マダイ)にそっくりなんだけど、タイみたいに大型化はせず、警戒心も薄いとのこと。そのため、初心者でも簡単に釣れるらしい。要するに、ド素人の私に向いている釣り、っていうことね。
そして肝心の釣り方は、コマセカゴに「オキアミ」という、小さいエビをぎゅうぎゅうにならない程度に詰めて、更に、針にエサを付けて海に投入。コマセカゴが底に着いたら、二メートル位リールを巻いて、竿を振ってコマセ(オキアミ)を出し、また二メートル、要は仕掛けの長さ分巻いて、あとは待つだけ。しばらくして魚が掛からないようなら、これを繰り返し、掛かれば竿を「ギュン」と持ち上げて、しっかり針を掛けてやり、リールを巻く、といった具合。
色々と細かいテクニックはあるようだけど、今年は豊漁のようで、適当にやっても簡単に釣れるみたい。
「今年は状況が良いので、簡単に釣れると思います。気楽にやってください」
「分かりました」
「後は実際にやりながら教えますよ」
「よろしくお願いします」
 
準備が整ったようで、船は港を出ていく。他の釣り船も一斉に岸壁を離れ、大海原に繰り出していった。
寒い。港に停泊していた時よりも数倍寒い。でも、船酔いはしていないみたい。屋形船でもしなかったし……ま、あの時は別の意味で酔っちゃったけど。
この船、よくみると可愛い。特に、ここにある小さくて丸い窓が最高に可愛い!そういえば藁科さん、「退職金で船の窓みたいな丸い腕時計買う」って言っていたような。酔っぱらっていてうる覚えなんだけど。多分この窓のことを言っていたのね。割と良いセンスしているじゃん。私も欲しいかも。
「おひとついかがです?」
「ありがとうございます。でも、今日は車なので」
「一本位なら、帰りまでに抜けますよ。藁科さんから聞きました。屋形船で泥酔されたとか」
「……」
あいつ、話しやがった。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
ワンカップだなんて……私、もう完全におっさんね。
「美味しい!」
体がポカポカしてきた。船で飲むお酒、ものすごく美味しい。

船は三十分程沖に向かって走った。酒井さんから頂いたお酒のおかげで、体が暖かい。できればもう一本飲みたかったけど、帰りの運転もあるしね。それに、今日は絶対に「酔っ払い」は避けないといけないし。
「それでは始めてください。水深は三十メートル。底から五~七メートルまで誘ってください」
船長の合図で、皆さん釣りを始めた。重盛さんは、早速タイ、ではなくてハナダイを釣った。すごい!
小さいタイことハナダイ。本当にマダイとそっくりね。と言いますか、私には全く区別がつかない。
「こうやって仕掛けを先に落として、最後にオキアミの入ったコマセカゴを落とすと、絡みづらいですよ」
「なるほど」
「今日は魚達がヤル気満々なので、水深は気にせず、底に着いたら五、六回位リール巻いて、後は待っていれば大丈夫ですよ」
「やってみます」
すると竿先に異変。ギュンギュンギュン!
「掛かった!」
慌てず、ゆっくり巻いてください。
「あ、タイだ!」
「本命ハナダイです。おめでとうございます」
「やった~!しかも二匹も!」
「写真撮りましょうか?」
「あ、いや、それはやめておきます」
「今日はそれが賢明かもしれませんね」
そうね、私は藁科さんの不倫相手。写真NGは大原則よね。

周りでは手慣れた手つきで竿を振っている。いや、しゃくっている、と言った方がしっくりくるかも。お隣の方を除いては。
酒井さんはというと、仕掛けを海中に沈めると、竿を固定して微動だにせず。いや、ちょっとだけ貧乏ゆすりしているみたいね。そして、竿先がギュンギュンすると、電気式リールのスイッチオン。じっと竿先を見つめている姿は、まるで「ウォークマンを聞く猿」みたい。たま~に、ゆっくり目を閉じたりしちゃって。あ、こんな表現、藁科さんに聞かれたら確実に突っ込まれちゃうな。「歳がバレるぞ」って。
でも、ちょっと大きいヤツが釣れたら、恐ろしい位手慣れた手つきでエラを切って「血抜き」とかいうヤツをやっている。なんだろう、彼のナイフの扱い。この瞬間だけ「猿」じゃなくて「かまいたち」ね。
「菜々美さんも大きいヤツ釣れたら血抜きしますよ。こうすると、刺身にして美味しく食べられるんです」
「頑張ります」
タイをお刺身にするなんて、私には無理だけどね。グリルを使ったこともない私には、塩焼きも怪しいわね。
 
酒井さんの丁寧な指導もあって、釣り自体は大分上達してきた。そして、いつの間にか、可愛い子ばかりだけど、数は十匹に到達。ひとつ、ふたつ、みっつ……ここのつ、と。いわゆる「つ抜け」というやつね。
そして周りを見渡すと、重盛さんは私の三倍、横着者の酒井さんでさえも、私の二倍以上は釣っている。何が大変って、釣った後に魚を針から外す作業。チョン、って掛かっていればまだいいのだけど、中には私みたいな食いしん坊さんがいて、針を飲み込んじゃっているの。こうなると大変!
でもね、こういう時は少し目を細めて、酒井さんを「チラッ」と見るの。すると、すぐに手伝いに来てくれるわ。フフフッ。男の子って可愛いわね。
「ズドン!」
「なになに!?」
「菜々美さん、多分タイ、マダイの方です。ゆっくり慎重に巻いてください!」
返事ができない。重い。そして凄い引き!絶対大きい!絶対釣りたい!
酒井さんがタモアミ持って構えている。もうちょっと!
「祭りましたね」
え?祭り?
「私の糸と絡まってしまいました。気にしないでそのままゆっくり巻いてください」
どうやら、私のマダイくんが、重盛さんの竿の方まで泳いで行ってしまったみたい。
「デカいよ!二キロはあるよ!」
 船長が魚の大きさを教えてくれた。何で分かるの?まだお魚が見えていないのに。
「ちょっと巻くのを待って。ここの絡んでいる所を解くから」
 重盛さんが絡んだ糸を解こうとして、海に身を乗り出す。丁度そのタイミングで、真横から大きい波がザブン。
(トン)

重盛さんがどんどん見えなくなっていく。ライフジャケットは……膨らまなかった。船長、酒井さん、そして皆さん。ただただ見つめているだけ。

*     *     *

 (ドン)
 ライフジャケットのボンベが抜かれている。そして船はだんだん遠ざかっていく。
「アンチョビピザ食べた~い」
昨日、飯島さんが俺に向かって突然言い放った一言。
一度、一緒に食べに行きたかったなぁ。
この場に及んで……俺は家族じゃなくて、飯島さんを思い出すとは。死んで当然、だな。
「後は任せたぞ」

「よくやった」
「このボンベはどうしますか」
「海に捨ててしまえ」
「分かりました」
「ナイフ屋からの転職、もう完璧にマスターしたな」
「不可抗力を利用して、ちょっとだけ押してやる。楽でいいです」
「さすが俺の教え子だな」
「ありがとうございます」
「藁科大希が死ねば、今度こそ山元の地位はガタ落ちだろう」
「間違いないと思います」
「これで業界は私が独占できる」
「おめでとうございます」
「家族が何か知っているかもしれない。藁科は、殺し屋にしては明るい性格だからな。後で殺っておけ」
「家族も危険ですが、もっと危険だと思われる女がいます」

*     *     *

港に着いた。何がどうなっているのか、よく分からない。でも、酒井さんが正義で、重盛さんが悪、であることは理解できる。私の正義、それは藁科さん。言葉の端々から察するに、酒井さんは藁科さんを慕っていた。
そしてただ一つだけ分かっていること。それは酒井さんが藁科さんの敵を討ってくれたこと。「猿みたい」なんて思ってしまってごめんなさい。ちょっと見直した。
 気づけば、酒井さん含め、ここにいる全員が本当に清々しい顔をしている。真相は分からないままだけど、きっと、これで全てが終わったのね。
「お願いがあります」
「何でしょう?」
「このコインロッカーの鍵を、藁科さんの奥様に届けてもらえないでしょうか」
「必ず」
酒井さんは、薄っすらと涙を浮かべているように見える。やめてよ、私まで泣いちゃいそうじゃない。
「彼は……藁科大希は、いったい何者ですか?」
「自分の親友です」

クーラーボックスを開けると、可愛いハナダイ十匹と、大きい、船長目測二キロのマダイが一匹入っていた。酒井さんがしっかり取り込んで、私のクーラーボックスに入れておいてくれたみたい。
「オスですね」
「何で分かるんですか?」
「オデコが出っ張っているでしょ」
「ふ~ん、タイって目が小さいんですね」
「デカいオスは黒ずんでいるからそう見えるだけで……いや、確かに小さいですね」
目が小さいだなんて、ちょっと微笑ましい。
「刺身にすると美味しいですよ。より美味しく食べられるよう、神経締めをしておきます」
酒井さんはアイスピックのようなものを取り出し、タイの頭を刺そうとした。しかし、タイは力の限り抵抗する。
「やめてっ!」
「?」
「この子、先端恐怖症なんです」
「そういうことでしたか」

船長がケートラに乗り込み、私と酒井さんを見てサムズアップした。そして帰っていった。他の皆さんも道具を片付け、帰っていった。
「それでは自分もこれで」
「はい」

涙が止まらない。やっぱり、生きていたんだね。

おごってあげることはできないけど……

かわりに美味しく食べてあげる。

第八章  仁


あの日、順子は、俺と生まれたばかりの大希を残していなくなった。
人妻に手を出した、子供を産ませた、裁判沙汰になった、金をふんだくられた、等々。俺の周りでは、散々な噂が流れたらしいが……一部は本当だが、ほとんどはデマだ。でも、俺は弁明する気になれない位落ち込んだ。
「何があったのだ、ひょっとして命を絶ってしまったのでは?」
何となく男の影があることは分かっていた。でも、それがどうした。我慢しろとでも。
こうなってしまうと、俺は突き進む。突き進んだ結果、大希を得て、順子を失った。

十年後、俺たちは偶然街で再会した。
「変わったな」
「……」
「何があったのか、話してくれないか」
「ごめんなさい。私……」
「俺の『裏の顔』は知っていたんだろ?」
「はい、知っていました」
 数分間の沈黙が続いた。
「私も『裏の顔』を持っています」

 子供ができてしまったことで、仲介者から酷く罵倒されたこと、更に名前を吉田紀子に変えさせられ、俺から遠ざけられたことを話してくれた。
「もし、子供の親が、同じ業界人の、しかも藁科ジンだと知れたら、私は始末されていたと思う」
 相手が俺であることは、うまくごまかしたらしい。
「結局、私は自分が可愛かっただけ」
「当たり前だ。順子、いや、紀子は悪くない。悪いのは全て俺だ」
 またしばらく沈黙が続いた。紀子は言葉を選んでいる。問い詰めてはいけない。
「もう一つ、話さなければならないことがあります」
俺にとって聞きたくない話だということは、紀子の表情から理解できた。
「私は……私は先代重盛の女でした」
男がいるという察しはついていた。ただ、相手があの重盛だったとは。恐らくヤツは、俺を何度か消そうとした。軽く跳ね返してやったが。
俺が重盛に対して抱いている消し難い憎しみは、破裂寸前の風船の如く膨れ上がった。
「私はね、こうやって生きてきたの」
「今こうして、二人で向かい合っている。偶然なんかじゃない。そう思わないか」
「そうね、そうかもしれないわね」
「俺は十年間、ずっと探していたんだ」

 俺と紀子は、月に一度だけ、隠れて会うようになった。紀子の仲介者である、先代重盛は、一年前に突然この世から去った。息子が殺したという噂も流れたが、それは定かではない。
 紀子は十年前、既に「重盛の女」という立場からは解放された。俺との子を宿し、そして生んだからだ。この時、死を覚悟した紀子だったが、重盛は紀子を裏組織の農園がある島に送った。この時、重盛には既に新しい女がいたらしく、紀子には、「自分の『島送り』は、重盛にとって返って都合がいいこと」と映ったらしい。
 こうして、紀子は九年間、島で生活した。そして、先代重盛の死を機に、また本業に戻されたそうだ。紀子は意外にも、島暮らしが快適であったようで、この決定はとても残念だったと言っていた。植物園の事務所にある「高性能パソコンが使い放題」という環境が気に入っていたらしく、当時流行り出した、インターネットの前身である「パソコン通信」に、どっぷりハマったそうだ。パソコン通信。俺には全く無縁の世界なので、これ以上の説明は控えさせていただく。

「俺と会っていることがバレたら、タダでは済まないのでは?」
「大丈夫、まいちゃったから」
「おいおい」
「ジンは大丈夫なの?」
「俺のところはそこまでうるさくない。結婚も自由だ」
「うらやましい」
「ダメなのか」
「少なくとも、同業者はだめ」
「忘れてた、俺のところも同業者は多分良く思われない」
再会から十四年後、俺たちは正式に結婚した。俺は藁科仁を捨て、相沢聡として生きることになった。裏ルートを使えば、改名なんてコンビニでおにぎりを買うようなものだ。顔も少々いじったので、大希には多分バレないだろう。あいつは賢いが、こういう所は鈍感だ。
 俺の仲介者である山元は死んだ。癌だったそうだ。表の顔は外科医のくせに、ステージ四まで見過ごしていたとは驚きだった。そんなに忙しかったのか。
 山元には後継者がいたらしいが、俺は先代の死を機に、殺し屋を辞めることにした。いや、許された。仲介者と殺し屋は、全て信頼関係の上に成り立っているが、立場は仲介者が上とされている。なので、最終決定は死ぬ間際にお伺いを立て、了承を得ていた。
大希は、もう立派な大人だ。大学まで行かせたことで、親の務めを果たした。……これは俺の勝手な言い訳であること位、分かっている。
大希は努力していた。苦手科目を克服し、県立高校に行き、地元の国立大学にも入った。そして、留年せずに卒業した。「大学まで行かせた」ではなく、大希が努力して行ったのだ。俺の血よりも、紀子の血が濃いのだろう。おれはそんなに努力家ではない。もう、心配なんてこれっぽっちもしていない。
俺は順子、いや、改名を余儀なくされた紀子との生活を優先させた。「俺はしばらく戻れない」と、メモを残したが、もう二度と帰ることはない。
すまない、大希。

*     *     *

「聡さん、明日は朝早いですよ」
「夜中の二時って、朝って言えるのか?」
 釣行日の朝は早い。俺は今、専業主夫だから何とか起きることができるが、週休二日のサラリーマンだったら絶対無理だ。土曜日に行くとしたら、仕事から帰ってきてほぼ寝ずに行くことになるし、日曜日に行くとしたら翌日仕事。当然ながら夏は暑いし冬は寒い。更に釣れなければ虚しいし、大漁の場合は、帰宅後もしくは翌日、釣った魚の下処理に追われる。国内にいながら完全に時差ボケになり、クタクタになる。これはもう趣味の領域を超えている。修行といっていい。
「釣りは悪魔の趣味」と聞いたことがある。紀子は悪魔に惚れつつあるようだが、俺は悪魔より天使の方が好きだ。休みの日はテレビでエンゼルス・大谷の活躍を観ていたい。
それでも俺が釣りに行く理由。
大希が危ない。
「心配なんてこれっぽっちもしていない」なんて言っておきながら……やっぱりいくつになっても、俺の子供には変わりはない。

 先代から、仲介者の地位を受け継いだ重盛の息子は、どうやら悪魔に取りつかれているようだ。月に一度、多い月には二度。船を貸切る、通称「仕立て船」にて仲間内で釣りを楽しんでいる。これに、なんと大希がよく誘われているそうだ。危険な臭いしかしない。
 紀子によると、この「釣り仲間」は、殺し屋稼業とは別の資金源に関連するグループが中心のようで、植物園がある島との往来目的で使っている船が、そのまま釣りというレクレーションで使われるようになったと言っていた。
 紀子は長きにわたる島生活で、このグループとのリレーションを築き、もぐりこんだ。実はこれ、重盛からのスカウトだったらしい。釣りに興味があるふりをしたら、すぐに誘われたそうだ。俺も紀子の紹介で、釣り好きの一匹狼「スリ師」として半年前にもぐりこんだ。俺と紀子は、互いが人質になった。これは重盛にとっては好都合で、俺たちの世界ではお決まりの縛り方だ。
 とりあえず、裏社会でこんなレクレーションがあるなんて初めて聞いた。

「おい、落ち着けよ」
 無理もない。紀子が大希と会うのは四十三年ぶりだ。つまり、赤ん坊の時以来だ。
「心臓が口から出ちゃいそう」
 俺まで緊張してきた。俺も何だかんだ十九年ぶりの再会だ。会うことよりも、本当にバレないかが心配だ。なので、席を決めるくじ引きは細工させてもらった。俺と紀子は左側、大希は右側になった。
「どう、くじは細工されていた?」
「いや、何もなかったようだ。今日は大丈夫ってことだ」
仕事が決行される日、間違いなく席は細工される。俺はそう睨んでいる。
 二週間後、再度早起き。慣れない。頭がボーッとする。今度は紀子を大希の、一人挟んだ席に座らせた。くじには細工はなかった。安心した紀子は横顔を何度も見て、何度も感極まったそうだ。

「はじめまして」
俺の前に突然、黒縁眼鏡の男が現れた。
「次回、船に乗る前に、必ず大希君にこれを飲ませてください」
初めて見る男だが、どことなく、姿形が死んだ山元に似ていた。山元の倅だということは、すぐに分かった。

今日も早起き、というより眠れなかった。
大希はいつも酒井君の車に乗って現れ、準備が整うと、酒井君と一緒に酒を飲み始める。大希と酒井君の、いつものルーティーンを利用させてもらう。
「はい、お清め!」
「ライムさん、ありがとうございます。遠慮なく頂きます」
 大希、変わってないな。そしてしっかり鍛えているようだな。
 大希には薬を仕込んだ酒、酒井君には普通の酒を手渡した。二人は準備を終えるなり、その酒を飲み始めた。
「お前の指示通りやったぞ」
俺は山元の倅を信じた。問題はない。いい眼をしていた。

 大希は船から酒井君に押され、海に落とされた。紀子は一瞬気が動転したが、俺が肩に手を乗せるなり、すぐに正気を取り戻した。
「きっと大丈夫だ」
「分かりました」
 薬はきっとアレだ。大希なら……十五分は持つ。でも、それ以上は危ない。
 下船後、携帯が鳴った。番号は非通知。
「無事回収しました」
「恩に着る」
 電話はすぐに切れた。無事であることを祈る。
「紀子、安心していいぞ」
「……」
 紀子の目は怒りに満ちている。
「俺も同じことを考えているよ」
 許すわけにはいかない。重盛はこともあろうに、俺たちの息子を手に掛けたのだから。

一か月後。また重盛から誘いがあった。今日は大希の追悼を兼ねて、皆を集めたそうだ。
今回は菜々美さんという、大希の嫁さんを招待したらしい。「追悼」はエサ。大希の嫁さんが今回のターゲットだろう。
 席は俺が決めた。ただし、重盛、大希の嫁さん、酒井君は固定で右側に並んだ。俺は左側。重盛と背中合わせ、紀子は酒井君の隣、という配置。紀子は「最悪の時は、命に代えてでも菜々美さんは守る」と言っていた。引き止めやしない。その時は俺も一緒に死ぬ。
  挌闘は少々厄介だ。重盛はああ見えて柔道五段。しかも重量級。更には懐に銃を二丁隠し持っている。出船前に確認させてもらった。
チャンスは一度だけだ。失敗は絶対に許されない。
 
 紀子はうまく溶け込んでいる。集中もしている。いい表情だ。ポジションは完璧。これなら何かあった時、いつでも飛び込める。
 菜々美さんの命、紀子の命。全ては俺に掛かっている。焦るな。

 釣りが始まって、どの位の時間が経っただろう。背中に集中しすぎて、時間が分からない。寒いのに、シャツは汗でぐっしょりだ。こんなに緊張する仕事はいつ以来だろう。
何やら後ろが騒がしくなった。どうやら菜々美さんの竿に大物が掛かったらしい。チャンスが巡ってきたようだ。
船長が何やら不自然にクラッチ操作をしている。菜々美さんの糸が、重盛の方に流れて行った。そして祭った。重盛がしきりに酒井君にアイコンタクトを出し始めた。
「酒井君は、今日は動かないよ」
俺は心の中で笑った。足の位置、重心、視線。明らかに酒井君にはその気がない。
「ありがとう。面白いものを見せてもらった。おかげで大分落ち着いた」
 重盛が絡まった糸を解くために、少し身を乗り出した。船長が俺の背中に視線を送った、ような「気」を感じた瞬間、船が九十度向きを変えた。そして横波を受けた。その刹那、酒井君が菜々美さんと重盛の間に割って入る。
「酒井君、何もかも完璧だ」

重盛が船から遠ざかっていき、すぐに見えなくなった。
紀子は重盛のライフジャケットから抜いたボンベを真顔とともに俺に見せ、そして海に落とした。

俺と紀子は操舵室によりかかるように座った。
「紀子、俺から離れた方がいい」
「いいえ、離れません」
「背中から一突きされて終わりだぞ」
「いつでもどうぞ」
俺は掟を破った。恐らく、このまま生きて陸に戻れない。この船には、必ず重盛の息のかかった刺客が乗り込んでいるはずだ。抵抗するつもりはない。俺はやり切った。
紀子も覚悟を決めている。二人で西日を眺めながら、その時を待った。

*     *     *

港に着いた。俺と紀子は生きている。皆、道具を片付け、挨拶をして去っていく。酒井君も挨拶にきた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそありがとう」
酒井君がいなかったら、今回の仕事はヤバかったかもしれない。本当に感謝している。それよりも……気づかれたか。明らかにそういう目をしていた。
「大希には内緒な」
「生きているのですか?」
「分からない」
山元からは「回収しました」とだけ告げられた。まだ確証はない。
「生きていてほしいです」
酒井君は深々と頭を下げ、菜々美さんの所に歩いて行った。
 
 俺の運転で帰路につく。ハンドルと握ったらドッと疲れが出てきた。何か話さないと居眠りしてしまいそうだ。
「俺たち、無職になってしまったな」
「私ね、実は裏の顔をもう一つ持っているのよ」
「ほう、スリと……実はユーチューバーでもやっているのか?」
「遠くはないわね。パソコン一つでできるし、リモートワークオーケーのお仕事なの」
「そいつはいいな」
「あなた一人くらいなら充分養えるわよ」
「俺は引き続き家事をやっていればいいのかい?」
「よろしくお願いします」
 少し眠気が覚めた。というより何だかホッとした。これでようやく、裏の仕事から完全に足を洗うことができる。
「聡さん、今日は何の日だか覚えてる?」
「結婚記念日、だったな」
「久しぶりにケーキが食べたい」
「とびきり大きいやつを買って帰ろう」

俺と紀子のストーリーは、まだ続きが書けそうだ。

最終章  親友


 目の前に黒縁眼鏡の男が現れた。会った瞬間、すぐに裏社会の人間だということが分かった。
「相談があります」
「内容次第で、あなたは自分に殺されますよ」

 自分と重盛さんは長い付き合いだ。気心は通じるし、信頼も……していた。
 実は最近、百パーセント重盛さんを信じられなくなっている。明らかに理不尽と思われる仕事が混じりだしたからだ。不審に思っても、掟を信じ、自分から調査することはしないが。
 同時に、「辞めたい」と思う気持ちも、最近沸々と湧いてきている。こんな状態で「殺し屋」という仕事を続けていいものだろうか。
 重盛さんは、次のターゲットは藁科さんであることを自分に伝えてきた。自分は「承知」と即答した。重盛さんは、その返答の早さに少々困惑した様子であったが、すぐに安どの表情になった。あの眼鏡からの「藁科は助かる」の言葉がなかったら、自分はどう返答しただろう。
「藁科大希の暗殺依頼があったら、迷わず受けて下さい、結果的に、藁科は助かることになりますが」
 あの眼鏡は何物だ?自分にこのことを伝えて、いったい何のメリットがある?
 今までの仕事の中でも、今回の藁科さんの殺害は特に違和感があった。自分は彼をよく知っている。彼は善人だ。殺すに値しない。「殺し屋」である彼に対して違和感がある表現だが、彼は少なくとも曲がっていない。一体、どんな調査をしたというのだ。
「眼鏡からの相談の件」は、重盛さんには黙っておくことにした。
それと、「仕事が成功した後、不倫相手の、始末の提案をして下さい」
 藁科さん、いつの間に不倫していたの?

 当日、自分は手筈通り、藁科さんをだました。ボンベを抜き取り、彼を海へ押し出した。藁科さんにしては警戒感が薄いような気がしたが……恐らく気のせいではない。あの時彼は、死のうとしていたとさえ思えた。
 そして帰港後、菜々美さんの殺害を重盛さんに進言した。本当にこれで正しい方向に進むのだろうか。そもそも正しい方向とは、どの方角なのだろうか。
「先日はありがとうございます」
「今度は何です?」
「今度は、ただ見ていてください」
「何もするな、と?」
「はい」
 この眼鏡、何を考えているのか本当にわからない。ただ、何となく信用してもいいような気がするし、実際信用している。「このままそこの窓から飛び降りてください」って言われたなら、疑うことなく本当に飛び降りてしまいそうな位、何か独特の力、人を動かす何かを秘めている。ある意味恐ろしいヤツだ。

 十二月。自分は重盛さんの指示で、菜々美さんを釣り船に招待するべく、彼女に会いに出かけた。実はこの日の前日、一睡もできなかった。こういう役目、自分はからっきしダメである。少なく見積もっても、暗殺の仕事よりも、数十倍、いや、数百倍は緊張した。ちびりそうだったし、もしちびっていたとしたら、その記憶はない。
 しかし、自分は運が良かった。緊張のあまり、思わず「奥様ですか?」と、よりにもよって不倫相手に言ってしまい、気が動転していたら、菜々美さんは優しく「はい」と、答えてくれた。今思えば、あれに救われた。不思議な感じだった。あの「はい」で、自分はひと口、酒を飲んだ錯覚に陥った。
よく見たら、菜々美さんも緊張しているようだった。目がシャーペンの芯のように細くなっていた。当たり前だ。見ず知らずの、怪しい中年男に、いきなり声を掛けられたのだから。そして、これが何を意味するのか、知っているようにも思えた。自分なんかよりも、裏社会で立派にやっていけそうだ。
この、お互い一言ずつのやり取りが終わると、何故か自分は完全に緊張が解け、立て直すことができた。事前に準備した説明文を喋り切り、やがてファイナルアンサー!菜々美さんは、今度ははっきりした声で「はい」と答えてくれた。もう、前日眠れなかったことが嘘みたいな、自分にしては百点満点の仕事と言っていいだろう。
 菜々美さんも眼鏡とはまた違う、何か特殊で独特の雰囲気を持っている。あの小さな目でチラッと見られると、我を忘れさせられ、深い森の奥に引きずり込まれそうになる。多分これが「魔性」というものなのだろう。藁科さんは運悪く、いや運良く、これにハマったのだ。
 重盛さんからは、菜々美さんの暗殺指示が下されている。でも、自分は今日、実行する気はない。掟は破る。
藁科さんに代わって、自分がこの「魔性の女性」を守るつもりだ。

「俺は、そろそろこの仕事を辞めようと思っている」
藁科さんは、殺し屋を辞めようとしていた。そして、その手段として、重盛さんを殺ろうとしていた。
 自分はあの時、重盛さんの暗殺は、仲介者から課された「殺し屋を辞めるための交換条件」と認識した。だとしたら……あの眼鏡は藁科さんの仲介者で間違いない。そして、この船のどこかに、眼鏡の息が掛かった殺し屋がいるはずだ。自分は、半年前にこのメンバーに加わった、今目の前で、背を向けて座っているライムさんと、隣のあるじょんぬさんが怪しいと踏んでいるのだが……そういえばライムさんの後姿、というか、うなじというか、髪の生え際というか。どことなく藁科さんに似ているような。

「!?」

 鳥肌が止まらない・・・・・・。
 両足が・・・・・・震え出した。

 伝説の殺し屋は、

生きていたんだ!

しかも、今、自分の目の前にいる。

藁科ジン。大希さんの親父さんだ!

十九年前に行方不明になり、業界では死亡説が流れた。重盛さんも信じていた。実は重盛さん、何度も刺客を送り込んだという噂がある。が、恐らくことごとく跳ね返されたのだろう。重盛さんは当時、ジンさんの死によって、裏社会は自分の独占市場になると確信し、高笑いしていたが、彗星の如く現れた大希さんによって、そのプランは打ち砕かれた。
自分が当初大希さんに近づいたのは、勿論刺客ではない。伝説の殺し屋・ジンさんに憧れていたから。たとえジンさんに会えなくても、大希さんにはそのスピリットが引き継がれていると思ったから。そしてそれは当たった。想像以上だった。彼は素晴らしい人間だ。浮気性を除いて。
重盛さんは、別の仲介者に属する、藁科一族が邪魔で仕方がなかったらしい。このことで、自分にはずっと葛藤があった。
「今度はただ見ていてください」
ああ、見ているとも。

 船はポイントについた。今日はおとなりが初心者の菜々美さんだし、お手本となるよう、立って竿を持ち、釣りをしようと思っていた。しかし、足の震えがまだ止まらない。結局、いつもの置き竿だ。
 それよりも、「その時」はいつ来るのか。一瞬たりとも気が抜けない。重盛さんには悪いが、ジンさんの仕事を、しっかりこの目に焼き付けたい。
「ズドン!」
「なになに!?」
 菜々美さんの竿が大きく曲がった。多分大きなマダイだ。ジンさんは?まだ動きはない。
船長がおかしな操舵をしている。菜々美さんの糸と重盛さんの糸を祭らせる気だ。船長も敵か?いや、正確には味方といった方が今日は正しいかもしれない。ジンさんは?まだ動かない。

 大きい波が来た。
 船長が進路を変えた。
 ジンさんは……いない!

横だ!

 目の前で起きたはずだが……何も分からなかった。無駄がない。自分の腕とは雲泥の差だった。

釣りは勿論ここで強制終了。船は今、港へ向かっている。

 さてどうする?
 重盛さんを手に掛けたということは、イコール、刺客に殺られる。刺客は誰だ?殺すとしたら、間違いなく船上。港に着くまでだ。
 そもそも、その刺客にジンさんを殺れるのか?当のジンさんは……あるじょんぬさんと一緒に西日を眺めている。隙だらけだ。覚悟を決めているのか。
(ガタガタガタガタ……)
操舵室の扉が少し開いている。船長の足が、やばい位大きく震えている。
「……」
伝説の殺し屋。刺客も気づいていたか。
自分がその役目だったら、もっと震えていただろう。

*     *      *

眼鏡の男は山元というらしい。あの日の翌日、また俺の前に現れた。短い内容のメモを自分に渡し、すぐに回収し、そして去っていった。重盛さんの長文よりもはるかに簡潔で、分かりやすかった。

あれから二ヶ月が経った。重盛さんの死体は見つからないまま。法的にはまだ失踪中扱いらしいが、自分は沈みゆく姿を見届けた。重盛さんの死は確実だ。
あの人に家族はいない。死のうが生きようが、困る人なんていないと思っていたが、フタを開けてみたらたくさんいた。
死亡認定前だが、親戚同士で財産分与の話になったそうだ。あの人、相当金をため込んでいたからな。当然と言えば当然だ。しかし、銀行の口座には、金は全く残っていなかったらしい、というより、確認した日の前日に、何者かによって、きれいさっぱり引き落とされていたらしい。たちまち骨肉の「ライアー探し」が始まったそうだ。
 自分から言わせれば……どんなに探しても、ライアーは見つからない。これはあのスーパーヒーロ―の仕業だ。
銀次は都市伝説なんかじゃない。実在する。
 
*     *     *   

 自分は今、駅のホームにいる。目の前には青い海が広がり、やや右手前には、小さな漁港が見える。釣り人二人と、もう一人。間違いない、藁科さんだ。本当に生きていたんだ。親子が何か釣っている。実に楽しそうだ。
 今日、自分は藁科さんに一言謝りに来た。だましてしまったこと、そして危うく殺してしまいそうになったこと。分かってくれるとは思うが、彼は稀に恐ろしく鈍感な時がある。そんな時は……潔く殺されよう。カミさんには申し訳ないが、藁科さんに殺されるのなら、自分は本望だ。
 それと、今日はもう一つ、大事な用事がある。勿論、生きていればの話だが。
「藁科さんと同じ病院の面接試験、受かるといいな」

*     *     *

二週間前。

「おはよう」
「では、私はこれで」
山元先生は部屋を出ていった。
一昨日、私の前に突然現れ、自分は医師で、藁科さんを保護している旨の説明を一方的に話してきた。一瞬私の目を見つめたあと、間髪入れずに「自分にとって藁科さんが必要な人物」だということ、そして私に「力を貸してほしい」ということを、淡々と続けた。私は一言「分かった」とだけ言ったわ。私がその解答に至るまで、一分、いや三秒もかかっていないわね。だって……死んだと思っていた藁科さんに、また会えるのだから。
「あなたは何者なの?」
山元先生は昨日、「目の前の男は藁科大希ではなく、鮎川春。そして今、彼は記憶喪失」とだけ私に伝えてきた。
「本当に記憶はないの?」
「『本当に』とはどういうこと?」
「ヤマモト先生がそう仰っていました」
「……」
「詳しいことは追い追い話すわ」
 私から話すことなんて何もないのだけど。思わず知ったかぶりしちゃった。
「本当に生きていたのね。魚になっちゃったのかと思った」
「魚?」

丸一日、藁科さん、いやハルの寝顔を見つめていた。何だか、ひたすらうなされていたわね。可哀そうに。怖い夢でも見ていたのかしら。

今日、奇跡的に気づいたこと一つ。

ハルって、奥二重なのね。


番外編 小料理屋春


「いらっしゃい」
「こんばんは~」
「おめでとう!」
四月末日。色々あったが、何とか「小料理屋春」の開店にこぎつけた。

俺は妻と子供たちがいる家に帰った。山元がどう計らったかは分からないが、特にマスコミ沙汰になることもなく、穏便に帰ることができた。とはいえ、妻と子供達からは、俺は半ば死んだものと思われていたため、テレビドラマのような感動の再会であったことは言うまでもない。
しかし、会社はというと、そうはいかなかった。「事件性のある失踪」ということで、社内では箝口令が敷かれ、「よかった、明日から職場復帰してください」とは、程遠い状況であった。
元々、俺は殺し屋以上に、「サラリーマンという職業に向いていないのでは」という想いもあったため、これを機会に会社を辞めることにした。妻の後押しにて。
そう、定年まで捨てることは許されないと思われた「大企業の万年係長」という地位。とある理由で、これを捨てることが許された。
「ロトシックスで一等が当たった」
ズバリ、金だ。
俺が酒井に託したコインロッカーの鍵は、ミク(当時は飯島菜々美)に託され、そして妻の小雪に届けられた。
小雪は一ヶ月間、会社を休んでしまったそうだが、子供達が休まずしっかり学校へ行く姿を見て元気をもらったらしく、職場復帰したそうだ。そして、コインロッカーの鍵のことは忘れ……俺の「そういえば鍵は?」の問いにて、その存在を思い出した。
小雪は俺に、理由を深く問い詰めることはなかったが、「宝くじで大金が入り、それが会社でばれ、釣り船での殺人未遂事件に発展した」と思い込んでいる。悪くないストーリーだ。このまま使わせてもらった。
しかし、予想外のことも一つ。先に「ロトシックス」を書いたが、実は俺の頭の中では「年末ジャンボミニ」位と思っていた貯金額が、実際はそれの倍以上であることがわかり、急きょ「言い訳」を変更することとなった。気づかないうちに……俺はたくさんの仕事をしていたことになる。
「人を嬉しがらせるものは、意外とシンプルで無邪気なもの」と聞いたことがある。無邪気ではないが……確かにシンプルだ。
「辞めちゃいなよ」
あっさり!
小雪は「この一年で、一生分の涙を二度も流した」と言っていた。勿論二度目は喜びの涙だ。
俺はロトシックスで当たったとされる金を、全て小雪に渡した。代わりに、退職金は自由に使っていいこととなり、これを店の開店資金に充てた。かねてから、俺の料理の腕と、性格を熟知している小雪は、料理も接客も上手くやれると思っていたようで、「借金せずに店を持つことができれば必ず上手くいく」と思ったそうだ。
しかも、小雪は新しい職場で、この春から正社員に抜擢された。「シングルマザーになってしまった小雪への、会社側からの配慮」という理由もあったと思われるが・・・・・・まあ、実際はならなかったが、それでも小雪の頑張りと、人柄が評価された賜物だろう。
これで我が家は安泰。こ殺し屋も辞めることができれば、全ては上手くいくはずだったのだが……人生、そう上手くはいかない。

「長い間お世話になりました。法律で裁けない、多くの悪いヤツを懲らしめてくれ、天に代わってお礼申し上げます」
「こちらこそ世話になった」
「あなたの新たな仲介者を紹介します」
「……」
「……」
今、何て言った?これって、俺は完全に殺し屋を辞めることができ、何なら花束でも貰える展開じゃないの?
扉が開き、白衣を着た、見覚えのある女が入ってきた。流し目が怖い。咄嗟に俺は目を反らした。そして額から汗がにじんだ。
「改めて初めまして。今後藁科さんを担当させていただく、鮎川三久と申します」
恐怖で言葉が出ない。
「私から逃げようったって、そうはいきません」
「私は引退してもいいと思っていましたが、三久さんが『まだ早いのでは』と仰っています。どうでしょう?もう少し続けてみては。ご家族のためにも」
「山元……何故、ミクに対して尊敬語を使う?」

こうして、俺の人生第二章は幕を開けた。

*     *     *

「はい、これ!」
「ありがとう!ミク、夕子姉さん」
奇麗な花束をもらった。お洒落な花瓶まで持ってきてくれたので、早速カウンターの目立つ所に飾る。うん、すごく絵になる。
初めてのお客さんは、ミクと小山さん(旧姓渡辺さん)。あの、俺を毒殺しようとした小山さんだ。詳しい経緯は後ほど。
「今日は来てくれてありがとう。一所懸命おもてなしをするので、ゆっくりしていってね」
「楽しみ~!」
「楽しみにしています!」

お店はカウンターのみ八席の、こぢんまりとした小料理屋。「小料理屋とは何ぞや?」と聞かれてもうまく説明できない。そもそも定義というものがないらしい。とりあえず俺が目指す店は「居酒屋以上割烹(料亭の小型版)未満」。一人で店を切り盛りしたいので、特に「こぢんまり」にこだわった。
雰囲気重視派の俺としては、内装もまた、しっかりこだわった。和風で、檜の高級感が漂うこげ茶と漆喰の白。プラス、落ち着いた暖色系の照明。漆喰の曲線模様が影となって現れる壁が気に入っている。そして何といっても、入り口の上にある、唯一の半円窓をステンドグラスにしたところが、最大のこだわりだ。基本「和」に振った内装なのだけど、これ一つで、お店はさり気なく教会っぽい雰囲気も加わった。バランス的にはちょうどいい。
このお店のコンセプトは、お酒が飲める「大人の隠れ家」。こういった類の店ではよく耳にしそうなコンセプトだが、人に聞かれたらこう答えるようにしている。因みに人には言わない、真のコンセプトは「思い出」。誰との思い出かは・・・・・・秘密だ。俺は秘密を着飾る、ミステリアスな男なのだ。
駅から歩いて十二分という立地条件も見逃せないポイント。近くもなく遠くもない、微妙な距離ではあるが、あまり近すぎない方が「隠れ家」としては良さそうだと思ったし、まあ、あまり心配することはないだろうが……実はあまり混雑してほしくないという希望も。一応、ミク様の仲介による裏の仕事もあるし。

「まずはこれを」
「何?これ」
「小キンメで作った『胡麻漬け』という一品。千葉の九十九里地方の郷土料理で、本来はカタクチイワシで作るんだけど、新鮮で程々に脂が乗る魚なら何でも美味しくできるんだよ。
「大希すごい、昔はフライパンも持てなかったのに」
「やっぱりハルは料理屋に向いているわね」
「ごめん、とても重要なこと忘れてた。飲み物は何になさいますか?」
「とりあえずビール!」
「うちも今日はビールにしようかな」
「あれ、夕子さん飲めないんじゃ?」
「実は飲めないんじゃなくて、肝臓の数値が気になって、控えていただけなの。なので、今日は乾杯だけ頂くわ」
「それじゃ、ハル、生三つ!」
「三つ?」
「ハルの分は私のおごりよ」
今日は一銭も払う気ないくせに。ま、いいでしょう。
「それじゃ、大希、ミクちゃん、グラス持って」
「祝・小料理屋春開店にカンパーイ!」
「カンパーイ」!
「二人ともありがとう」

「この胡麻漬け、うま~い!軽く酢で締めてあるのね」
「半日酢で締めることで、保存が効くようになるし、小骨もやわらかくなるし、何より味がよくなるよね」
「黒胡麻の風味と生姜がとても合うわね。鷹の爪は赤色も演出していて、絵的にもいいわ」
「あまり背伸びしたメニューにするつもりはないけど、一応これは『先付け』のつもりで。一番お気に入りの小鉢を使ってみた」
「へぇ~、白と藍色の小鉢、いいセンスね!大希、これ、何焼き?」
「それは……分からない」
「ハルらしいわね、私もそこはどうでもいいかも~」
「いやいや大希、そこは調べようよ」
「はい、次回までには」
実はこの小鉢、矢田の結婚式での引き出物だ。俺にとってはお気に入りというよりも、思い入れがあるといった方が正しい。ずっと使わずに仕舞っていたけど、「今日使わずにいつ使う?」という想いで「先付け」に抜擢した。確か「波佐見焼」って書いてあったような気がするが、ちょっと自信がない。後で調べてみよう。
因みに矢田旅館は、矢田支配人の人柄と努力により、客足はあっという間に戻ったようだ。家族で一度泊りに行きたいと思うも、ネットの予約サイトでは、週末はおろか、平日も常に満室状態。頑張っているじゃないか、矢田!
「二号は将来大物になる」
体育の先生は「先見の明があった」ことが証明された。

「続いては、『キンメダイの炙り刺し』と『イサキのナメロウ』、サラダ代わりの『キンメの湯通しカルパッチョ』」
「ハル~、ビールおかわり!」
「はい、どうぞ!」
「大希、小皿が二つあるけど?」
「炙り刺し用で。一つはシンプルに山葵醤油、もう一つはニンニク味噌。お好みで」
「ニンニク味噌なんて初めて。うん、これはこれでイケるかも!」
「山葵醤油も美味しいけど、ニンニク味噌もすばらしい!良い意味で味が全く変わる。ミクちゃん、これはお酒が進んじゃうね」
「でしょ!」
「ハル、そういうことでビールおかわり!いや、やっぱり次はレッドアイ作って!」
「はい、どうぞ。ウォッカ足してミクスペシャルにしておいた」
「サンキュー」
「何?レッドアイって」
「ビールにトマトジュースを混ぜたカクテル。ミクの場合、これにウォッカを加えたレッドバードがお好みなんですよ」
「私が勝手にレッドバードをミクスペシャルに名前変えちゃった」
「へぇ~、ミクちゃん、ちょっと一口」
「どうぞ」
「うん、ビールの苦みが消えて飲みやすいわね。って、これウォッカ入れすぎじゃない?」
「これがレッドバードの上をいく、ミクスペシャルなのですよ、夕子姉さん」
「スペシャル最高~!」
「……」

「話は戻って『キンメダイの炙り刺し』。この魚は皮が美味しいので、バーナーで炙ってみた。湯引きも美味しいけど、炙ると、少し残ったウロコが焦げて、香ばしさを演出してくれるので、個人的にはこちらがおすすめなんですよ」
「ホントだ、ちょっとだけ残った焦げたウロコ、香ばしいかも」
「うちもそう思う。いくら炙ったとしても、たくさんあるとダメだと思うけど、少しなら逆にいいアクセントね!」
「そういえば夕子姉さん、自分のこと『うち』って言うの?」
「うちね、大希と別れた後、福岡に引っ越したのよ。そしたら周りがみんな『うち』って言っていたから、いつしかそうなっただけ。ま、仕事中は『私』を使うけどね。それに、ミクちゃんが『私』を使うから、分かりやすいでしょ」
「確かにわかりやすいし、都合がいい」
「夕子さん、『ハルと別れた』ってどういうこと?もしかして……」
「うちね、中学生まで大希のお隣さんだったのよ。要するに幼馴染なの」
「ま、マジっすか!たまげた。ちょっと酔い冷めた。ハル、全然そんな素振り見せなかったし、全く分からなかった」
「そうよ、うち、大希のおむつの交換もやってあげたことあるのよ。うちはすぐ気づいたのに、こいつったら全然気が付かないの。頭に来ちゃって。本気で殺してやりたいと思ったわよ」
洒落になってない。本気で殺されかけた。重盛を仲介者としていた夕子さんは、あの時「掟」で仕方なく俺を殺そうとしたと言っていた。こういう時は、AB型の二重人格を利用して、「冷酷な殺し屋」に変身するそうだ。「二重人格は、こういう使い方があるんだ」って、この時俺は感心した。
当時はまだ四年制(現在は六年生)ではあったが、母子家庭で育った夕子姉さんが、薬学部を出るということはとても大変だったらしい。優しい夕子姉さんのことだ、色々と複雑な事情が絡んで、裏の仕事にたどり着いてしまったのだろう。そして、今は・・・・・・裏の仕事は、引退こそしていないが、山元の病院にて、表の仕事に専念しているそうだ。
「夕子さん、ハルのおむつを交換したの?」
「そうよ、こいつのドリルみたいなやつ、よく引っ張って遊んじゃった。意外と可愛かったわよ」
「今でも可愛いかも」
女子トークは早くも下ネタへ。そして俺は聞こえないふりをして次の料理に専念……あれ、夕子姉さんの顔がいつの間にか真っ赤だ。さては・・・・・・仕事ができる女性は、こういう下ネタ苦手か?
「一晩貸してあげてもいーわよ。久しぶりに可愛いヤツと再会してみたいでしょ?」
「きゃー、やめてー」
俺も同意見だ。夕子姉さんには貸し出さないでくれ。その前に、俺を私物化しないでくれ。
ミクは……実はこの三人の中で、一番「裏」が多いかもしれない。
「『カルパッチョ』もイケるわね~。タマネギいっぱい。私のドロドロ血液がサラサラになりそう」
ドロドロの血液ではなく、ドロドロの人生の間違いでは。
「『イサキのナメロウ』も美味しいわ。意外とこってり。そして独特の香りがするわね。この香り、何故か、大希とザリガニ釣りした時の香りがする」
「イサキはウリボウという、縞々模様がある若いイサキで作ってみたんだ。ウリボウは、身はしっかりしているんだけど、脂のノリはイマイチなので、粗めに叩いて、キンメの肝と一緒にしてみた。独特の香りの正体はセリ。近所の田んぼの畔で、今朝摘んできたんだよ。残念ながらザリガニはまだいなかったけどね」
「そっか、セリね。昔はよく見かけたよね」
「実は、今の方が昔よりたくさん生えているんだよ。多分だけど、セリを知っている人って、昔ほどいないんじゃないかな」
「そうかもね。言われてみれば、うちも他の草とセリを正確に見分けることはできないかもしれない」
「春の香りがする~!」
「小料理屋春ということで」
途中、ミクの下ネタでどうなることかと思ったが、ここは奇麗に会話を締めくくることができた。

「続いては、『丸ごとキンメダイの煮つけ』と、『兜の酒蒸し』」
「大希、こんなに大きなキンメダイ、どうやって丸ごと煮付けたの?」
「そう、実は大きい鍋がなくて、ホットプレートで作ってみた。大きいので、二人で一皿ね」
「なるほどね。ホットプレートという手があったわね。勉強になったわ。うちも試そうかな」
「一キロ超えるキンメは脂が凄く乗っているから、濃いめの味付けがおすすめですよ」
「超うまそ~!ハル~、冷酒!」
「辛口でいいかな」
「グラスは二つ!」
「夕子姉さんも飲むの?」
「うちはウーロン茶で」
「そうじゃないでしょ、ハルも飲んで飲んで」
「大希、ミクちゃんからの命令です」
 予想通りの展開で嬉しいけど、ちょっと心配になってきた。ミクの目がやや怪しい。
「『酒蒸し』も美味しいわね。胸ヒレの付け根の筋肉が珍味」
「大きい目の周りもトロトロ~」
「ミクちゃんと大希の目とは大違いね」
「ハルに言われると腹立つけど、夕子さんに言われると、何だか笑っちゃう」
「確かにキンメって、深海魚だけに目が大きいよね」
「ハルに言われたくな~い」
「ミクちゃん、いいツッコミ!」
「夕子姉さん、ミクはこのツッコミを言いたかっただけなんですよ」
「仲のいいこと」
 ミクはまんざらでもない顔をして、こっちを見ている。不気味だ。因みに彼女の趣味は。酒、食べ歩き、ホラー映画鑑賞。

「夕子姉さん、一応『キンメダイの鯛めし』も、もうすぐ炊き上がるけど、どうする?」
「『キンメダイの鯛めし』なんて初めて!是非炊きたてを頂きます!」
「ハル、私も!」
「了解です!」
「薄味だけど、魚のあらと昆布で取った出汁も使っているので、旨味は充分でていると思う」
「おこげもある!超がつくほど美味しそう!」
「ぬか漬けと、あら汁もどうぞ。ミクはどうする?」
「いる~!」
「お酒は?」
「おかわり~!」
「り、了解しました」

「この後、『メダイの梅紫蘇(うめしそ)はさみ揚げ』を作る予定だけど、ひょっとしてお腹いっぱい?」
「大丈夫!まだ入る~」
「うちも大丈夫!」
「オーケー!絶対そう言うと思った」
 実は小キンメとウリボウとメダイは、まとめて買うことで格安にしてもらったもの。俺の貧乏性がこうした、ではなく、こういった仕入れ方をして、料理に工夫を凝らしていくのも面白いと思ったから。勿論、お店ということで、面白いだけではだめだけどね。俺の工夫で、目の前のお客さんを笑顔にしなければならない。今日は特に、ね。
「ハル~、『梅紫蘇』ということで、今度は梅酒ロックちょーだい!」
「はいどうぞ、はさみ揚げもできたよ」
「付け合わせの、『緑の揚げ物』は何?」
「これは明日葉。セリと同じく、近所で摘んできた」
「明日葉って、青汁に入っているやつ?苦いの?」
「いや、全然苦くないよ。緑色がほしくて、大葉の代わりに使ってみた」
「ホントだ、全然苦くない。栄養満点!」
「メダイっていう魚、肉厚があってジューシー。揚げ物だけど、梅紫蘇がこのお店の『和の雰囲気』にとても合っているわね」
「メダイもこの地方では、キンメダイと同じく、年間通して水揚げされているんだって。表面がヌルヌルしているので、釣り人に嫌われる傾向がある魚なんだけど、肉厚があって美味しいよね。個人的にはヒラメの上を言うと思ってる」
「すごく美味しい!ハルの料理最高~」
「大希の料理、凄く美味しいけど……さっきから疑問に思っていたんだけど、ミクちゃん、何で大希のこと『ハル』って呼んでいるの?」
「それはハルに聞いてみて」
「ザクッ」
「大変、大希が包丁で指切った。血が出てる」
俺としたことが、一瞬動揺してしまった。一センチ程度か。大したことはない。
「ちょっと、私に指貸してごらん」
「きゃー、ミクちゃんが大希の指舐めてる」
一瞬……ミクが吸血鬼に見えた。
「絆創膏貼ってあげるね。よかった、最後の一枚だった」
ミクがピンク色の可愛い絆創膏を貼ってくれた。優しいミクの顔が、すぐ近くにある。やばい、ちょっとドキドキしてきた。
「はい、これで大丈夫。それでは説明して。最後まで」
「最後まで……」

「そ、その前に、忘れちゃいそうなのでデザートの水羊羹を。夕子さんには緑茶を入れるね」
「まさか、これも自分で作ったの?」
「実は水羊羹に使うテングサ、この地方の名産品なんです。小料理屋春は、できるだけ地産地消を心がけようと思っているので。それに水羊羹って、原料は小豆と砂糖と寒天(テングサ)。それと水だけ。意外とシンプルなんですよ」
「シンプルなレシピほど誤魔化しが効かないから、意外と難しいんじゃない?」
「さすが夕子姉さん。そう、その通り。この品質にたどり着くまで、結構試作を重ねたんですよ」
「大希の自信作、それではいただきます。うん、甘さも硬さも丁度いいバランスね」
「ありがとうございます」
「ハル~、私もお茶!」
「了解。すぐに入れるね」
「緑茶ハイ、濃いめで!」
「り、了解しました」

二人が水羊羹に手を付け始めたのを見計らって、俺はグラスに残っていた冷酒を飲み干し、あの虹色だった二週間の話をした。記憶喪失であったことも、一応「言い訳」として付け加えた。
「それで『ハル』なのね。ようやく謎が解けたわ。ミクちゃんの改名も理解できた」
「ハルはね、最後書置きして出ていったの」
「大希、それはダメね。ちゃんと言葉で伝えないと」
「はい・・・・・・猛省しています」
「それは別にいいわ、元々は私がいけなかったんだし」
「大希、ダメよ、ミクちゃんにこんなこと言わせちゃ」
「ミクは悪くない、全て俺が悪い」
「よし、ハルはいい子ね。分かっているなら、ちゃんと最後まで責任取らないとね」
夕子姉さんが苦笑いしている。「だめだこりゃ」って、小さな声で言ったような気がした。
「そういえば夕子さん、山元先生とはどんな関係なの?」
お、いいタイミングで話題が変わった。俺も聞きたい。ナイス、ミク。
「大希、焼酎もらえる?ロックで」
「ハル~、勿論三つよ!」
「『福岡育ち』ということで、麦でいいよね!」
いくら鈍感と言われた俺でも、この展開は予想できるぞ!
「私たち、結婚しました」
「おめでとー!」
「カンパーイ!」

こうして楽しい夜は終焉を迎える・・・・・・はずだった。
「そういえば、とうとう他の客は来なかったな。ま、今日はその方が都合よかったのだけど」
「二人でお店に入る前に『営業中』の札を『準備中』に返しておきました~」
ちゃっかり営業妨害していたのか。

「ハル~、立てない」
「ミクちゃん、もう眠っているみたい」
「まだ起きていますよ~、目はパッチリ開いていますよ~」
いや、開いてない。
「大希、どうする?」
「『こあがり』に運ぼう」
「あれ、このお店、『こあがり』なんてあったっけ?」
「今、ミクのために作った」
「小説の世界って便利ね」
「ハル~、今日はシャワー浴びてないけど我慢してね」
「そ、それじゃお二人さん、私はこれで。大希、ちゃんと鍵は閉めるんだよ」
「ちょっと、夕子姉さん、待って!」
「おやすみ~」
「夕子さん、旦那さんによろぴく!」
「ミクちゃん、今宵は存分に楽しんでね」
「ウェ~イ!」


〈了〉

2023年1月24日 (火)

プロット

●幼少期  L 父さんが許可しないと、格闘をしてはならない  L 「父さんと約束をしてくれ。」     L 10歳の頃、俺が大人達を殺してしまったから     L 公営住宅に父さんと二人暮らし     L 隣に住む、4つ上の幼馴染のお姉ちゃんがチンピラ3人に襲われた     L 気づいたら3人とも殺していた     L 父さんは「気絶しているだけ」と言っていた       L 間違いなく死んでいた       L 俺が全員の首の骨を折ったからだ       L お姉ちゃんは「気絶」を信じていた    L 父さん「お前と夕子ちゃんは家に帰りなさい」    L 後は父さんが何とかする       L 他言無用だ       L 翌日は何事もなかったかのようだった  L 父さんは空手道場を経営していた    L 子供たちが対象で、ほとんど託児所だった    L 俺も当然そこで空手を習っていた L 母親はいない    L 父さんは結婚していない    L 俺の母親はだれ?    L 9歳の頃、父さんの友人から聞いたことがある    L 「亭主もちの女に手を出し、お前を生ませた」    L 裁判にもなって大変だったらしい       L 金も相当とられた       L 「金を相当取られた」がトラウマ L 父さんは優しい    L 面倒見もいい    L 人に好かれるタイプ    L きっと色々複雑な事情があったのだろう L 名前は仁    L ジンだと思っていた    L 周りは皆ジンと呼んでいるから    L でも実際はひとしであった       L 19でバイクの免許を取った時「住民票」で初めて知った    L 「ああ、そういえばそうだったかも」    L 「ひとしよりジンの方が好きなんだ    L 名前変えるなら、有名な小説家にでもなってペンネーム持てる身分になってからにしろよ L 俺は18になっていた    L なんとなく「裁判沙汰になって大金取られた」がトラウマになり、国立大学に入った    L 因みに高校は県立、男子校    L 好き嫌いが激しい俺にしては、勉強はオールラウンダー       L 父さんの裁判沙汰、がトラウマで頑張っただけかも       L なんだかんだそんけいしている    L とはいえ、不思議と金には困っていない印象だった    L 別に私立でもいい、と言った雰囲気もあった    L 車も、高級車ではないが、普通の車を新車で買っていた       L  L  大学1年生 地元の国立大学 法学部    L 部活は弓道部に入った    L 理由は弓道部に入った、同じクラスの友人に見学に連れていかれ、    L そのまま、名前を書かされた    L 空手部、柔道部、少林寺拳法部、以外なら父さんとの約束上、問題ナシ      L 因みに高校は陸上部      L ハンドボール部に入ったが、1年生の時に体力測定100mを11秒で走り、無理やり変えさせられた      L 3年次には11秒を切り、インターハイに出た      L 運動神経は良い方だ    L 弓道部は悪くない      L 女子率高い      L 男子校出身の俺はどうしていいか分からない位      L タッチのような高校生活にあこがれていた         L マネージャーが美人の女子なんてありえない         L 陸上部は、怪我で大会出られない3年生が担当していた      L タッチとは違うが、大学の弓道部もありえない   L 弓道部の同学年の女の子に恋      L 教育学部の財前遥        L しかし、俺を弓道部に誘った友人が好きらしい        L 告白したらしいが、振られたらしい        Lでも、まだ好きでいるようだ        L 知っているだけに、俺から何も言えない      L 2年生になったばかりの頃、一緒にバイクの免許を取らない?と誘われる        L バイクに興味あると知っていて、あまり興味なかったが、興味あるふりをしていた        L もちろん、授業、部活、バイトの合間に一緒に取りに行く        L 教習所プチデートだ        L バイトで貯めた金でバイク買う        L 2人とも、共通は丸いライトに黒いタンク         L ルカは単気筒、俺は4気筒のエンジン          L ルカ「単気筒は心臓の音がする」        L いつしか、一緒にツーリング          L 遅くなって1人暮らししているルカのアパートに泊めてもらうこともあった          L 2人お気に入りの、雰囲気の良い喫茶店も          L 俺は雰囲気重視派。それを知っていて見つけて、俺が喜んでくれると思って連れていってくれた          L いつしか、付き合っているような感覚すらあった          L 俺の勇気足りなかった            L 今を壊したくない、傷つきたくない     L 3年生の夏合宿で事件        L 最終日に、後輩の女の子からコクられる        L 情報によると、1年間片思いしていたらしい        L 可愛いが、恋人としてはみられない           L 振ったら、1つ下の後輩女子全員を敵に回す勢い     L 例の喫茶店でルカに相談        L えりちゃんと付き合おうと思う        L 「もう、見ていて切なすぎた」        L 全然気づかなかった        L 馬鹿じゃないの?鈍感すぎ        L いつもと雰囲気が違う ルカの表情が微妙だった        L 俺はえりちゃんと付き合うことにした        L あの喫茶店で相談した1か月後、ルカも彼ができたらことを知った           L 俺の友人じゃなく、別の男だった           L あの時の「鈍感すぎ」、エリちゃんに対しての俺に言ったのかな。     L ルカは卒業と同時に結婚した        L お腹には既に子供がいたので、結婚式はやらず        L 年賀状は幸せそうだった          L 俺は心から幸せになってほしいと思った        L 因みに俺は、エリちゃんと大学の卒業を待たずに別れた          L 俺が振ったのではない、振られた          L 他に好きな人ができた、と告げられ        L 付き合った後、まだ俺にはエリちゃんを本気で「好き」になっていなかった          L なので、好きになるよう、本気で頑張った          L そしたら2か月後、むちゃくちゃ好きになっていた          L なので、その半年後、振られた時は大ショック          L 本気で自殺してしまおうとも思う位            L なので、テレビで自殺とかの問題をやると、気持ちは分かる               L ミステリー小説が好きな俺は、死が簡単に思えていたと思う               L 特に好きな作家さんの小説は、自殺殺人が多く描写される               L 因みに男女間のドロドロの描写も多い            L 「死ななくても」それは当事者にしかわからない            L あの時死ねなかった俺の言葉は薄すぎるかもしれないが            L 今確実に言えることは、生きていてよかった     L 卒業して1年10ヶ月後。24歳       L 俺は小雪という彼女ができた          L 就職した会社も、儲かっているようで、生活は公私ともに安定している       L 2月初め。ルカから突然電話「会わない?」         L 旦那さんと離婚した、DVがあったらしい         L 児童相談所に子供を預けたことも         L 家に突然来そうな気がして怖い         L 幸せを疑わなかったルカが、こんなことになっているなんて         L やるせない気持ちで押しつぶされそう      L ルカから、突然写メ 正確にはアイショットというらしい        L 大学近くの公園のモニュメント        L 嫌な予感        L 父さんに一言「ちょっと車かして」      L 公園についた 走ってモニュメントに急ぐ        L 学生時代、ここで、部活の皆で花火をやった場所        L 広い公園だが、全速で走った        L モニュメントに着くと、ルカが男につかまれている        L 「大希」 ルカは泣いている        L 「男がいたのか?」男は逆上した 男、別れた元旦那だろう        L 俺は元旦那のすぐ前に、           L 元旦那はルカを離し、俺を掴んだ           L 「ルカ、逃げろ」           L 拳を握ったが、父さんとの約束を思い出す           L ボコボコに殴られる           L ルカは離れた所で、へたりこんで泣いている           L 鼻血がでた 鼻が折られた           L 思わず左手で鳩尾をどつく 元旦那は気を失い倒れる           L モニュメントにできていた、巨大なつららが、元旦那の右目を貫いた           L 脳まで貫通している、即死だろう        L すぐ横に、父さんが立っていた           L ルカはへたり込んで泣いているが、ツララが刺さっていることには気づいていないようだ           L 「約束、破ったな」           L 「見ていたのか」           L 天を仰いだ。数秒後「お前は正しかった」           L 「この男は俺が何とかする。お前はあそこにいる彼女を連れて帰れ」           L 「彼女じゃない こいつの元奥さんだ」           L 1つ忠告しておく。亭主もちの女にはかかわらない方がいい           L 重いな           L また天を仰いだ。「やっぱり知っていたか」と、言わんばかりに           L 「元奥さんだ」           L 「これからは、お前の判断で拳を使え」           L 数日後、ルカから電話があり、元旦那からのストーカー行為はなくなったと報告があった              L ありがとう、と           L あたりまえだ。ヤツは俺が殺した。           L この事件の一か月後、父さんは失踪した           L 「藁科さんの息子さんですか」              L おまえは誰だ?              L こげ茶のスラックスに紺のセーター。年は30前後にみえる。そして特徴的な黒縁眼鏡をかけている。              L 父さんは生きているのか?              L 分かりませんが、伝言を預かっています              L 「ごめん、しばらく家には帰れない」                「俺のかわりに山元を助けてやってほしい」             L まったく、薬のまされて、小学生になったとでも言いたいのか?             L  俺は父さんの正体は分かっていた              L  藁科一族の血を継ごうじゃないか

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