シーブリーム
第一章 仮初の夫婦
深い霧に包まれた森。樹々が鬱蒼と生い茂り、根は土の中に張ることが許されないのか、地面にむき出しになっている。少しでも気を許せば躓いてしまいそうだが、俺は走り続けるしか選択肢はない。
「追いつかれる」
白い服を纏った女は、逃げる俺との距離を詰めてくる。
白い壁には、薄いグレーで描かれた、いくつもの花。右横には吊り下げ式の天井照明。壁、ではなかった。俺はベッドに横たわり、天井を見ていた。
「おはよう」
女が泣いている。
「では、私はこれで」
白衣を着た、黒縁眼鏡の男が部屋を出ていった。女は涙をぬぐっているが、頬が緩んでいるように見える。
黒い髪は肩まであり、肌は雪のように白い。どこかで見たことがある、ような気がする。
「あなたは何者なの?」
何を言っているのだろう。「あんたこそ誰?」と言いかけたが、途中で酷い頭痛に襲われてしまう。
「本当に記憶はないの?」
「『本当に』とはどういうこと?記憶喪失って?」
「ヤマモト先生がそう仰っていました」
「……」
「詳しいことは追い追い話すわ」
さっきまで不安そうに俺を見つめていた女は、もうここにはいない。
「本当に生きていたのね。魚になっちゃったのかと思った」
「魚?」
頭の中がもやもやする。俺はまだ夢を見続けているようだ。
三ヵ月前、俺は海岸で倒れている所を、山元とかいう医者に発見され、ここに運ばれたらしい。らしい……そう、俺の記憶は、風に吹かれた煙のように消えていた。俺の身に何が起こったのか、そもそも俺の名前は。
「これ、持っていて」
「免許証?鮎川春?」
「そう、ハル。いい名前ね」
「……。あんたの名前は?」
「ミク、だって。よろしくね」
幸い、言葉、腹が減ったら飯を食う、用を足したくなったらトイレへ行く、などといった、生きていく上で出需なことは大体覚えている。「修羅場を抱えている人間なら、むしろ都合のいい状況なのかもしれない」と、ふと思ったが……意外と当たっている予感がしてならない。そして目の前にいる女……まるで俺が記憶喪失であることを、当たり前であるかのように振る舞っている。三ヶ月の眠りから目覚めた時、確かに「本当に記憶はないの?」と言っていた。あの時意識は朦朧としていたが、そこは覚えている。
不自然なことだらけの中、最大の疑問一つ。なぜ匿う?普通に考えれば、まずは警察に連れて行くのではないだろうか?いや、警察はまずい。ん、何故まずい?「よろしくね」とは。
何がどうなっているのか、さっぱり分からない。あえて言うなら、今の状況は、アメリカの捕鯨船に、無人島で死にそうになっている所を助けられたジョン万次郎。危険に晒されている訳ではなさそうだが、故郷に帰る術は今のところない。今はまず、アメリカ本土を目指し、帰国のチャンスを伺うしかない。
あれから一週間が経とうとしていた。俺は鮎川春。そして目の前に座っている女はミク。鮎川三久。恐ろしく違和感があるが、俺とミクは夫婦。少なくとも免許証があるし、一週間前に初めて会った気も、なんとなくしない。何より、俺が紅茶よりもコーヒー派であること、パセリがダメなこと、そして脇腹限定の「くすぐったがりや」であること。これらを知っている。「これは間違いない」という材料は、しっかり揃っていた。
ミクという女、いや、妻は病院の総務課で働いている。山元とかいう、黒縁眼鏡の医師は、その病院の院長。ミクの上司、ということになる。俺はというと、説明するまでもなく無職。残念ながら、今は「ヒモ男」と呼ばれても仕方がない状態だ。不思議と掃除や洗濯といった家事は、鳥が空を飛べることと同じように、本能的に体が覚えていて、テキパキこなせる自信がある。が、何分体が言うことを聞かない。俺は三ヶ月、夢の中で樹海を彷徨っていた。
「ただいま」
「おかえり」
はじめは違和感だらけのこのやり取り、今では他愛もない「ヒモ男と養う女」の会話だ。まあ、「ヒモ男」は別として、何だっけ。「仮初の家族」だとかいうアニメが、雰囲気だけかすっているような気がする。奥さんが殺し屋で……。
まただ。何かを思い出そうとするたびに酷い頭痛に襲われる。これが記憶喪失というものなのだろうか。今は無理に何かを思い出そうとするな、という警告と理解しよう。幸い、ミクが傍に居てくれるおかげで、たまに襲われる頭痛以外、全てが心地よい。時々、過去の記憶を忘れてしまっていることを、忘れてしまいそうな自分がいる。
「体はどう?だいぶ動けるようになったみたいだけど。明日気晴らしに、ドライブにでも行ってみない?」
そんな満面の笑顔で誘われてしまっては、俺はもう為す術なし。
ちょっと暖かくなり始めた二月最後の週末、ミクの運転でドライブに出かける。いかにも女性が好きそうな、可愛いらしい軽自動車の助手席は、思いのほか広くて快適だった。走り出して十分ちょい、街中の景色は、海と山、ときどき温泉街に変わった。
左側に見える海が美しい。沖に見える、海鳥のような白い点々は釣り船だろうか。あんな所で何が釣れるのだろう?
「!?」
また頭痛だ。
「どうしたの?」
「海を眺めていたら、何か思い出せそうで」
「顔が辛そうだよ」
「頭痛が」
「じゃ、海を見ちゃだめ」
まるで海に嫉妬しているような言い回しがが妙に可愛らしい。ここはミクの命令に従って、左手に広がる海を眺めるのをやめた。代わりに正面やや右寄りに視線を移すことにした。
そういえば、ミクって歳はいくつだろう。あえて俺から聞くような馬鹿な真似はしないが、「私いくつに見える?」って聞かれた時は「三十代前半」って答えれば、喜んでもらえると踏んでいるのだけど、実際そう見えなくもない。小さい目と薄いそばかす。これ以外は完璧。いや、これを含めて美人だ。笑うと「ただの線」にしか見えない目は、本人曰はく、二重らしい。が、残念ながらよくわからない。それについてからかうと、「ハルに言われたくない」が、最近お決まりの、俺に対する突っ込みとなっている。
ミクは両手でハンドルを握って、真剣な面持ちで運転している。気づけばカーブやトンネルが増えてきた。「今はあまり話しかけないで」といったオーラを放っているように思えたので、俺はただ、ミラー越しにミクの顔を見つめる。うん、よーく見ると確かに二重だ。
「何がおかしいの?」
「本当に二重だ」
「私の百倍わかりづらい、奥二重のハルに言われたくない」
そうか、俺は奥二重なのか。
「そっくりそのまま返すよ。ミクに言われたくない」
やばい、つい勢いで言い返してしまった。これは完全に「売り言葉に買い言葉」だ。言葉のキャッチボールのつもりが、こともあろうにバットで打ち返してしまった。ここで怒らせてしまってはせっかくの楽しいドライブが台無しになってしまう。
「死なないで本当によかったわね」
「なんだよ、しみじみと」
何だかよくわからないが、とにかく助かった。次回は気をつけよう。
「ちょっと疲れちゃった。休憩」
「賛成。俺もコーヒー飲みすぎたかも」
ウインカーを出し、パーキングスペースに車を停める。看板には「尾ヶ崎ウイング」と書かれていた。
「奇麗でしょ。あ、海を見ると頭痛がするんだっけ?」
「もう大丈夫」
空はちょっと曇ってきたけど、眼下には相変わらず美しい海が無限に広がっている。
「俺はどういう状況で発見されたの?」
「そのうち思い出すよ、って院長が言ってた」
「院長のヤマモトケイって何者?」
「院長、ケイっていうの?」
「そんな気が、したかも」
「記憶が少しずつ蘇っているのね」
「かもね」
「私は、あなたを知りたいの」
「……」
「だから、あんまり急いで思い出しちゃだめよ」
「よくわからないけど、わかった」
公衆トイレからミクが待つ駐車場に戻る。すると、何やら様子がおかしい。ミクが若い二人組の男と話をしている。いや、通せんぼされている、と言った方が正しい。一人は長い黒髪で長身、もう一人は短い茶髪で小太り。「人は見た目で判断してはいけない」とよく言うが、俺はこの時見た目で判断した。二人とも、できれば関わりたくない。
「おい、俺の妻に何の用だ」
「はぁ~、お前の女?」
二人組の男は、ニヤニヤしながら俺を値踏みしはじめた。果たしてどのくらいの値が付くのだろうか。
「この女はお前みたいな弱々しいやつより……」
残念ながら激安だったようだ。そして有難いことに、黒髪の男が俺に近づいてくる。一歩遅れて茶髪の男も近づいてくる。俺の体はまだ本調子の三割位しか戻っていない。距離が完全に詰まり、黒髪で長身の男が右足を振りかぶった瞬間、鳩尾、アゴ。そのまま首に左手を回そうとしたところで「はっ」とする。黒髪の男は既に昏倒しており、俺が左手で支えていた。
茶髪の男は、何が起こったのか分からない様子だったが、やがて相方の意識がないことに気づき、みるみる顔が青ざめていく。リーダー格の相方を失い、何も判断できない、といった様子だ。俺は動かなくなった男を茶髪の子分に押し付け、指示を出す。
「悪いが連れて帰ってくれないか」
丁寧に抱え、車高の低い、いかにもセンスが悪い車へと運ぶ。
「心配するな。死んではいない」
どうやら周りにいた家族連れやカップルには気づかれていないようだ。
体が勝手に動いた。しかも、危うく殺してしまいそうだった。俺は……俺はいったい何者なんだ?ミクはさっきから何も喋らない。
車のハンドルを十時十分に握り、ひたすら走り続ける。フロントガラスには、いつの間にか大粒の雨が落ち、ワイパーが間隔を開けずに動いている。そして車は濃い霧に包まれた。俺の頭の中と同じ、どこか知らない世界に迷い込んでいるようだった。
ミクは一体何を思うのか。恐る恐るルームミラーで様子を窺うと……目が線!
「さっき、妻って言ってくれたよね!」
そっちでしたか。
とある古民家カフェ。古き良き、そして堂々たる佇まい。まるで映画のワンシーンに登場するお洒落な家、といった印象。「へぇー、やるじゃん、ミク」
「どう、気に入ってくれた?」
「うん、気に入った」
自慢じゃないが、俺は、食に関してはまるで無頓着。食べるも飲むも、ほぼ百パーセント雰囲気重視派だ。記憶は失っていても、本能は失っていない。本能とは人間が生まれつき持っているとされる、ある行動へ駆り立てる性質。上手く説明できないが、たった今決めた俺の持論だ。つまり、この店はいい。
雨は通り雨だったのか、カフェに着く頃には既に止んでいて、雲の切れ間から日が差していた。ミクおすすめのテラス席こそ、椅子もテーブルも濡れてしまって使えないものの、室内の雰囲気は、昭和の香りが色濃く残ったレトロ感で満ち溢れていた。耳を澄ませば、潮騒が風に乗ってやってくる。
「私ね、マッドデイモン様の大ファンなの」
「はあ」
「マッドデイモン様といえば、何だかわかる?」
「オーシャンズイレブン」
あのスリのシーンはいまいちだが、悪くないキャラだ。
「ちがーう。ボーンアイデンティティでーす」
マッドデイモン様の話題を振られた時から、なんとなく察しはついていた。が、何となくストレートには答えなかった。ただ、ミクの反応を見たかっただけかもしれない。
「実際には続編が四つ出ていて、ボーンアイデンティティはシリーズ第一作なんだけどね。今日のハルを見て、リアル・ジェイソンボーンだと確信したの」
やっぱりそうきたか。記憶喪失は当たっている。体が勝手に動いて、チンピラを殺しかけたこともニヤリーイコール。偽造パスポート……この免許証はいったい?
「ひょっとして、思い出しちゃった?」
「いや、少なくとも俺はCIAとは無関係だと思う」
「ふーん」
「あれ、おしまい?」
「うん、おしまい」
会話が途切れた所で、ノンアルコールビールと、アンチョビとブラックオリーブが乗っかったピザが運ばれてきた。「美味しいもの食べないなんて生きている価値ナシ」と言っていたミクがセレクトしたメニュー。絶対美味しいに決まっている。そして、実際すごく美味しい。ここのお店のアンチョビとブラックオリーブとピザの組み合わせは、ミク曰はく、世界一美味しいのだそうだ。「世界一」はあまり多用してはいけない派の俺でも、これは確かにうなずける。もう一度言う。すごく美味しい。そして、美味しいものを食べているミクの顔が、無邪気すぎる。
「今日はなぞなぞがかなり進展しちゃったから」
俺のことを知りたい、と言っていたと思うんだけど、彼女の中では、事情がちょっと複雑そうだ。そして、今の俺の心境は……最高に複雑だ。
「体が勝手に動いた」
「あっという間だったね」
体が本調子だったら、あの三倍は速い、と言いかけたがやめた。
「いいのか、こんな俺に関わって」
記憶は戻らないままだが、この現実がまともじゃないことくらいは分かる。目の前にミクがいなかったら……殺していた。
「ここ、映画のワンシーンに使われそうなお店でしょ」
話題を変えてきた。ここは付き合おう。
「俺も第一印象でそう思った」
「和風だし、マッドデイモン様にはちょっと似合わないけどね」
「CIAはハズレってことですな」
「フフッ、そうみたいね」
「今度はハルの運転でここへ来て、同じシュワシュワでも、ちゃんとしたビールが飲みたいな」
「あれ、そういえば何で俺もノンアル飲んでいるんだろう?」
「何だか一人でノンアルは悔しいから、勝手に頼んだの。私のおごりなのだもの、贅沢言わない」
ミクは意外と「S」だということが、とりあえずここで判明した。
ヒモ男生活?は二週目に突入した。掃除、洗濯、買い物、料理。一応しっかり家事をこなしているので、「ヒモ男」ではなく「主夫」と言ってもいいと思うのだが、相変わらずミクは俺を「ヒモ男」から昇格させる気はないらしい。「尻に敷かれる」とは、また違った感覚なのだけど、彼女と上手くやっていくには、このまま昇格を望まない方がいいだろう。
この一週間で色々と分かったことがある。自分のこと、そしてミクのこと。今の俺は……自分のことよりも、むしろミクのことを、もっと知りたいと思うようになっていた。
日曜日。今日はお互い遅い朝を迎えた。昨日、久々に遠出し、更にミクは一日中運転手。帰宅後の二人は、帰り道に酒を大量に買い込み、それらを全て飲み尽くし……そのまま寝室になだれ込んだ。
「ハル~、お願~い。お風呂にお湯ためて」
「じゃんけん」
「やだ。これはハルの仕事でしょ」
朝から体が動かない。俺もミクも、ドラクエで例えたら、ヒットポイントのゲージは黄色で、今にも赤になりそうだった。我が家のペットにホイミスライムがほしい、って本気で思った。とりあえず、昨晩の出来事は……ご想像にお任せします。
俺は一足先にベッドから抜け出し、シャワーを浴びる。並行して、お風呂にお湯をためることにした。「早くサッパリしたい、でもご主人様を差し置いて、先に湯船に入れない」判断を誤ると、即ゲームオーバーだ。
「なーんだ。もう入っちゃったの?一緒に入りたかったな~」
一瞬後悔したが、一緒に入ってしまった暁には、ヒットポイントは確実にゼロになるだろう。すなわち、ゲームオーバーだ。判断は間違っていない。
昨日の帰り道、道の駅に寄り道して買い物をした。意外にもミクは鮮魚に興味を示し、お店の方にすすめられた、二キロのマダイを即決で購入した。驚くべきことは、ちゃんとクーラーボックスを持参していたこと。もはや、素人の買い方ではない。
ミクによると、このタイはオデコが出ているからオスで、一晩寝かせた今日が食べ頃、とのことらしい。確かに俺もそう思う。
でも、である。ミクの、ここ数日の行動を隈なく観察しているが、何で魚の「目利き」ができるのか不思議でならない。三日前、「サンマの塩焼きが食べたい」なんて言ったかと思ったら、スーパーのお惣菜コーナーで、既に塩焼きにされているサンマを買ってきて、レンジでチンするような女性だ。我が家のキッチンには高性能のグリルがあるにもかかわらず。
「矛」と「盾」。当たり前だが、この二つを合わせて「矛盾」と読む。恐らく「三」と「久」を合わせても「むじゅん」と読むのではないだろうか。
昨晩はやや飲みすぎてしまったので、「ブランチはラーメン」ということになり、とりあえず駅前まで歩いて来てみた。
「何系のラーメンがいい?」
「肉がいっぱい乗っているヤツ」
会話が少々噛み合っていないが、俺にはちゃんと伝わった。多分このお店で大丈夫だ。
俺は醤油ラーメン、ミクは塩チャーシューメン。もし二人がカマキリだったら、俺は確実に食われるパターンだな。
そんなこんなで本題に入る。マダイだ。俺の予想はこうだ。
アジの塩焼きが作れないふりして、実はタイはしっかり捌くことができ、更には「舟盛り」にしてくれる。
俺の予想は……見事にはずれた。
「タイの捌き方教えて!」
「分かった」
予想ははずれたが、何だか悪くない展開。多分俺はタイを捌くことができる。タイを目の前に包丁を持つと、勝手に手が動いた。
「へぇ~、こんなところにも小骨があるのね」
「煮たり焼いたりなら、下処理は簡単なんだけど、刺身にするには、皮を引いたり、炙ったり、小骨取ったり。結構手間がかかるんだよ」
「でも、面白そうね!」
「残りの半身、やってみなよ」
「わかった!ハルのお手本観ていたら、何だか出来そうな気がしてきた」
気づけば可愛いエプロンをしていた。「見ためは奇麗な女性だけど、中身は意外と大雑把な男っぽい」の印象が、少し変わったかもしれない。
「上手にできたね」
「楽しい!もう一匹買ってくればよかった」
俺も楽しかった。何でこういう展開になったのかは分からないが、ミクが楽しいならそれでいい。
「今日は迎え酒よ!」
「はい、是非お付き合いさせていただきます」
火曜日。大分体の調子が戻ってきた。土曜日の晩に一旦急降下したが、それは俺とミクの二人で作った「タイづくしフルコース」にてすぐに挽回。昨日の晩も……ややヒットポイントが低下したけど、土曜日よりは軽かったので、一晩眠ってリカバリーすることができた。とはいえ、朝ごはんは「ガッツリコメが食いたい」と、二人の意見は一致。何故かキッチンの引き出しに乾燥ポルチーニが入っていたので、冷蔵庫に入っていた冷や飯とマリアージュさせて「なんちゃってポルチーニリゾット」を作ってみる。リゾットは、本来米から作るのだけど、今回は冷蔵庫にあった「冷や飯」から作ったので「なんちゃって」。うん、予想以上にイケる!
「ハル、すごーい!」
「テキトーに作った割には美味しくできたと思う」
「お店持てるんじゃない?」
「小料理屋春」
「小料理屋三久の方がいい」
あれ、俺の店じゃないの?
ミクによると、乾燥ポルチーニは、たまたま陳列してある棚の前に立ち止まったら、たまたま目に入り、更に「ポルチーニ」という響きにピ~ンときて、衝動的に買ってしまったそうだ。何の料理に使うつもりだったのか聞いてみた所、「カレーにでも」って、そこは軽く考えていたらしい。独特で繊細な香りが魅力のイタリア産高級キノコを使ったカレー。実現したなら、きっと最高に贅沢な一皿だったと思われる。そしてミクのことだ。カレーはカレーでも、レトルトカレー中辛をチョイスしたに違いない。
朝食を済ませ、ミクを送り出し、本日のノルマの、掃除と洗濯を済ませた後、リハビリに出かける。今日は片道一時間コース。天気も良いし、海まで行ってみるつもりだ。
前半は車道、後半は遊歩道。遊歩道はアップダウンがあるものの、木々の隙間から時折見え隠れする、青い景色に癒される。足腰の具合は元通りに近い。今週末には百メートル十一秒位で走れるような気がしてきた。俺の百メートルベストタイム……そういえば俺は記憶喪失中だったっけ。
歩きはじめて一時間。ようやく目的地の、つり橋の看板が見えてきた。平日ということもあり、閑散としている。手前に売店があるので、ここでちょっと休憩。
「あれっ」
モスグリーンのスラックスにこげ茶のセーター、そしてトレードマークの黒縁眼鏡。白衣姿よりもかっこいいじゃないか、山元先生。「こんに……」
声を掛けるのを寸前でやめた。何だか人を探しているようだ。離れて様子を見てみることにする。すると、五分とかからずお相手が現れた。女性であった。年齢は山元先生と同じ位だろうか。五十歳前後に見える。声を掛けなくて本当によかった。
「これは面白い展開!」
なんて思ったのも束の間、何か引っかかる。
「あの女、どこかで見たことがある」
名前は全く思い出せないが、絶対どこかで見たことがある顔だ。そんなことを考えていたら、いつの間にか目を離してしまい、二人はいなくなった。と思ったら、二人は売店前のベンチに腰を下ろしていた。やがて山元先生がその場を離れ、しばらくして缶コーヒー二つ持って、また隣に座った。初めは本当に面白い展開になる予感がしたが、今現在の雰囲気は、それとは程遠い。二人とも、何やら超が付くほど真面目な話をしている。やがて女が泣き出した。
「山元先生は何物なのだろう」
医者ということは知っているが、それだけではないはずだ。とりあえず眼鏡が怪しい。
自分のこと、ミクのこと、そして山元先生のこと。あの女のこと。本当に俺は、この先忘れてしまっている「何か」を思い出すことができるのだろうか。俺は今、バックミラーのない車を運転している。
女が泣いてから数分が経った。そして、あっという間に状況が一変した。二人とも神妙な面持ちから、一瞬で、砕けた笑い顔に変わった。
山元先生が笑っている。女と二人で笑っている。無理して笑っているようには思えない。何がどうなった?もはや二人とも「二重人格」としか思えない。
しかし、二人を見ていて思ったこと一つ。
俺は凄く幸せな気分になった。
木曜日。ミクは俺が作った卵サンド二つを平らげ、コーヒーを飲みながら化粧をする、といった離れ業をやってのけ、あっという間に家を出ていった。今日のノルマは掃除と晩御飯の支度のみ。ササっと掃除を済ませ、日課となっている足腰のリハビリに出かける。今日はちょっと遠征だ。
国道を南へ歩く。地図で調べた限りでは、ルートは海沿いだけど、実際は木立に囲まれた、緑のトンネルが続いた。ようやく海が見えたのは、歩きはじめて一時間以上が過ぎた頃だった。
歩きはじめて二時間が経とうとした頃、何やら怪しい立ち寄り温泉施設の看板が目に入った。どうにも気になってしまい、引き寄せられるように階段を下り、暗いトンネルを進むと、看板から感じた不安は払しょくできるくらい、しっかり整備された入浴施設であることが分かった。入り口には「準備中」という案内板が下げられており、何故かホッとしてしまう。「ミクは連れて来られないなぁ」脱衣所付近にはフナムシがたくさんいたので、虫嫌いのミクを連れてきたら、確実に絶叫だろう。
海に目をやると、近くに小さな漁港があり、防波堤の突端で親子が釣りをしていた。何が釣れるのか興味が湧き、ちょっと見に行ってみる。
「何が釣れるのですか?」
お父さんが俺の問いに答えようとする刹那、子供が持っていた竿に何かが掛かった。竿は弓なりにしなっている。
「ウツボだ」
水深が浅いらしく、リールを巻かずとも、竿を立てただけで黄色と茶色の縞々模様が確認できた。大物らしく、お父さんも取り込みに参戦し、二人がかりで抜き上げた。
「危ないよ、噛まれたら大怪我するよ」
とっさに団子状になって抵抗するウツボのエラ付近を掴み、お父さんから借りたナイフを使って顔と胴体の間にある骨を折り、絶命させる。
「これで大丈夫。見た目はちょっとアレですが、美味しいと思いますよ」
「ありがとうございます、恐ろしいですね!」
「このウツボ、アナコンダ並みにデカいからね」
実際、アナコンダを見たことはないので適当に答えてしまったが、要するに「大物ですね」と、釣り人に対する敬意を最大限表したつもりだ。
「あ、いや、あなたの手際の良さを見ていたら、私まで殺されてしまいそうな殺気を感じてしまいました」
そっちでしたか。
人によってはお節介、って思われてしまうことかもしれないが、この親子からは感謝された。お父さんはちょっとだけドヤ顔、そして息子の目は、生き生きと輝いていた。胸が……張り裂ける思いがした。
「よう、久しぶり」
「記憶喪失、って聞いたのだけど」
また二時間かけて歩いて帰っても良かったのだが、買い物にも時間を費やさなければならないので、電車を使うことにした。「ヒモ男」にとってはかなり贅沢な選択だが、晩御飯の準備が遅れることだけは絶対に避けなければならない。ミクはいつだって飢餓状態で帰ってくる。電車はこの時間、一時間に一本だが、たとえ一時間待ったとしても、二時間かけて帰るよりは速い。何より楽だ。ここは迷わず文明の利器を使い、ミクの帰宅に備えることにした。
ホームにたどり着くと、人の気配はなく、閑散としていた。気配はない。こうやって俺に近づくことができる奴なんて……世界でたった一人しか知らない。
「『聞いた』とは?」
「……」
「とにかく、また会えて嬉しいよ。会ってちゃんと礼を言いたかった。あの時はありがとう」
「自分はあなたを殺していたかもしれない。そしてあなたを裏切ってライフジャケットのボンベを抜いた張本人だ。なのに何故?」
「俺は生きているよ」
「実際、宝くじが当たる位の確率だと思っていた」
「もちろん三百円だろ」
「いや、一等前後賞」
「俺はしぶといらしい」
「なので鍵は……」
「宝くじが当たっていたことにでもするかな」
彼の名前は酒井。本名かどうかは分からないが、とにかく「酒好き」酒井だ。
「先端恐怖症らしいね」
「彼女から聞いたの?」
超がつく程口下手な酒井が、彼女とどんな会話をしたのか気になる。気になれば気になる程、おかしくなる。以前、合コン、キャバクラ、お見合いパーティー。自分にとっては全て拷問以外の何物でもない、って言っていた。もっとも、大好きな釣りの話となれば別、って付け加えそうな気がしないでもないが。とにかく、よく頑張ったな、酒井。
「そんなあなたが、鍼屋(はりや)の同業者と仲良くなっていたとは驚きだ」
「あの、色黒のバイクオタクは、俺と違って真面目で誠実だ。夏になったら、ちゃんとお中元届けた方がいいぞ」
「ヤツは死んだのか?」
「あなたと違って、すぐに沈んだよ」
駅のすぐ横にある踏切が鳴りだした。「あれっ」と思い、線路の方向に振り向くと、特急列車が警笛を一回鳴らして通り過ぎて行った。よかった。俺はもうちょっとここにいたい。もうちょっと酒井と話がしたい。
「彼女は最強だろ?おみくじで大吉しか出さない、正真正銘幸運の女神なんだ」
「ああ。あなたが奥さんを裏切った理由が、あの日分かった」
「……」
やっぱりもういい。
俺の希望通り、普通列車は行ってしまったばっかりで、駅のホームで一時間近く待つことになった。俺と酒井は何を話すわけでもなく、裸足になって駅構内の足湯に向かった。温泉街の駅って、なんて素晴らしいのだろう。
「いかがです?」
リュックサックから、いかにも安酒といった絵柄のワンカップを二つ取りだし、一つ俺に手渡した。
「足りなければおかわりありますよ」
「いや、一つで十分。今日はまだ仕事が残っているんだ」
「そうでしたか」
不思議な仮初夫婦生活は、二週間が経過しようとしていた。俺とミクの間には、穏やかな時間が流れている。幸せ、なのだろう。
「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい!」
洗濯と掃除を終えたら、出かけるとしよう。
「記憶はいつ戻ったのですか?」
「二、三日前」
「早かったですね、藁科さん。あと一週間、ミクさんの笑顔が見られる予定だったのですが」
「やはり記憶喪失はお前の仕業だったのか」
「その前に……私は命の恩人だと思うのですが」
山元は無表情だが、間違いなくにやけている。そして黒縁眼鏡が五ミリ下がっているのを俺は見逃さなかった。こいつには隙がほとんどない。あるとすれば唯一、メガネが五ミリ下がっている時のみ。そう、今この時、山元は少々饒舌になる。
「『海岸で見つけた』も嘘だろ」
「さすがに十一月の海で、海岸まで流れ着くのを待っていたら、しぶといあなたでも確実に死んでしまいますから」
「白状したな。全ては計画通り、ということか」
「私はそんなに利口じゃないです。それに計画は少々変更することになりました」
「そういえばあの時、やけに防寒着がゴワゴワしていたのは気のせいか?」
「勿論、気のせいではないですよ」
「ついでにGPSも仕込んでいただろ」
「グローバル・ポジショニング・システム、と言うらしいですよ」
「お前がわざわざ海まで出向いたのか?一般人を巻き込んでは、足がつくだろ」
「近所のバイク屋のおやじが、ジッェットスキーをやりに行きたい、って言っていました」
山元の黒縁眼鏡は下がったままだ。
「何をしようとしている?ミク、いや、菜々美はなぜ?」
「飯島菜々美さん、たっての希望です」
「どうやって確認した?」
「会った瞬間の表情で確認が取れました」
話が途切れた所で、跨線橋の下を特急列車がゆっくり通り抜けていく。山元は、もう何もかもがお見通し、とばかりに、おもむろに缶コーヒーを口に運んだ。そして眼鏡を直した。
こいつとはかれこれ二十年の付き合いになる。もうこれ以上、会話はいらない。黒縁眼鏡を直してしまった今となっては、会話をしても無駄と言った方がいいかもしれない。でも、あえて言葉で伝える。
「妻と娘と息子が待つ家に……帰ろうと思う」
「そう言うと思いました」
私は鮎川三久。飯島菜々美は半年前に死んだことになっている。両親もとっくにいなくなっちゃったし、あっさり決めたわ。そもそも菜々美っていう名前、あまり気に入らなかったし。菜々美と三久。三文字の名前って、二文字の名前よりも、人生三十三パーセントも損するでしょ。
私は相変わらず山元院長の病院で働いている。頑張って、調剤薬局事務の資格を取ったので、職場は変わったけどね。総務課の制服、田舎の中学校の制服みたいで気に入らなかったの。その点、薬局は薬剤師も事務も、全員白衣なので、正式に医療従事者になった気分。
そして最近は、裏の仕事の窓口役もこなすようになった。山元院長、そして藁科さんが関わっている、裏社会の真相を知ってしまった私が生きていく道はただ一つ。山元院長の管理下に置かれるしかないみたい。それを拒むと、本当かどうかは分からないけど、藁科さんのように、自身、もしくは自身とその親しい人間の命が狙われることになるみたい。藁科さんの場合、奥様ではなく、私がその標的になったってことは……ま、私の方が親しい人間だった、ってことね。
そして薬局に来て驚き一つ。以前仲良しだった、旧姓渡辺の小山さんと偶然再会。彼女、薬剤師の資格持っていたのね。お酒は飲めないけど、気が合うのでとても頼もしい。因みに私も「結婚したけどすぐ別れた」って言ってある。ま、半分は本当だしね。
何でも小山さん、「私は山元先生に助けられた」って、しきりに話していたわ。理由は秘密らしいけど。あの男、見かけによらず、意外と面倒見が良い人なのかもしれないわね。
裏社会に関わるという「罪悪感」と「緊張感」。苦しい?逃げ出したい?いや、私はメチャ快適!
「はいメモ。次の仕事はちょっと手ごわいわよ」
「おいおい、もっと楽なのにしてくれよ」
「ダメよ、しっかり働きなさい」
「……」
「色々と大変ね、ハルって。奥様に対して隠し事がたくさんあって」
「シャレになってないっつーの。はいはい、やります、やらせていただきます」
「フフッ」
ハル、いや藁科さんは家族の元へ帰っていった。勿論、私を置いて。でもね、こうなることは初めから分かっていたの。
ま、いいわ。許してあげる。一度だけ藁科さんの家を尋ねたことがあるんだけど、奥さん、寝込んじゃっていて、お会いすることは叶わなかった。あんな男だけど、何だかんだ愛されているのね。
たった二週間だったけど……幸せだったわ。あなたと一緒に暮らせたこと、一度だけだけど、私のこと「妻」って言ってくれたこと。素敵な夜だって、幾度かあったわね。できればあと一週間、いや一日。ハルが記憶をなくしたままでいてほしかった。
彼の正体は、家族思いでちょっとだけ浮気性のサラリーマン。表の顔はね。裏の顔は、腕利きの殺し屋と、私のいい人、ということね。
彼は殺し屋を辞めるべく臨んだ最後のお仕事で、逆に船から海に落とされてしまったのだとか。警察は事故として処理したみたいだけど、実際は殺人、ではなく、殺人未遂ね。裏情報によると、ライフジャケットを膨らますためのボンベが抜かれていたらしいわ。
でも、冷たい海に沈みゆく最中、彼は絶望どころか、逆に清々しい顔をしていたみたい。殺し屋であったこと、それと私とのこと。死んでしまうことで、二つの罪をぬぐえるとでも思ったのかしら。
私はどうしても彼が死んでしまったことを、いや、死んだと思ってしまったことを受け入れられず、真相を探ろうとして、一ヶ月後、同じ船で殺されかけた。でも、酒井さんという方に助けられ、何とか生きて帰ることができた。私は何時だって幸せを運ぶ青い鳥。おみくじは大吉しか引いたことないし、じゃんけんだって、勝率は推定九十パーセント以上。これ、本当よ。ただし、男運だけは最低だけどね。
帰り際に、酒井さんから、何故か頂いてしまったタイ。ハルに似て、元気で、そして目が小さかった。あの時は「ミクに言われたくない」って、本気で突っ込んでほしかった。私はこの時、「藁科さんはタイに生まれ変わったんだ」って思うようにしたの。私って意外と切ない女でしょ、ハル。
でもハル、甘かったわね。
地獄に落ちるべき人間は、そんなに綺麗に、そしてかっこよく死ねないの。山元院長は私を利用して、引退しようとした腕利き殺し屋を取り戻した。初めは、本当に引退させようと思ったみたいだけど。
そして私も、藁科さん、いや、ハルを取り戻したの。今回の一件の黒幕を利用して。
逃げても逃げても、私という樹海からは絶対抜け出せないんだから。
第二章 女
半年前。
「診察券番号九番の患者様、診察室にお入りください」
消化器内科専門山元医師のアナウンスは、声のトーンに変化がほぼなく、機械的だ。診察室に入り相対すると、一段と「機械っぽさ」の度合いは増し、よくテレビドラマで見られる、患者に寄り添う模範的な医者とは程遠い。もっとも、これは俺に対してのみかもしれないが、他の患者に対して、これが劇的に変わるとも思えない。営業マンなら確実に顧客はいなくなるだろう。しかし、営業マンではない、医師である彼の場合、患者からの信頼は絶大のようで、待合室の電光掲示板は予約患者で埋め尽くされ、予約なしの初診患者はまず山元医師の診察にまわされることはない。
AB型。山元の素性は全くと言っていい程不明だが、これだけが唯一、俺が知り得た情報だ。
俺は若い頃、潰瘍性大腸炎という難病を患った。因みにこの病気は、重症度の分類にもよるが、国から医療費がでる「指定難病」なのだそうだ。一年前に暗殺された、元内閣総理大臣も同じ病気だったらしい。
因みに俺の場合、正確には「患ったことになっている」が正しい。そしてここから俺の「裏の仕事」も始まった。
病院へは定期的に通院しているが、これは家族からの目を反らす口実である。定期的に薬を出してもらわなければならない、医療費がかからない。消化器内科が専門である山元とちょくちょく合うには都合がいい病気というわけだ。
「どうですか、お体の具合は」
「最近疲れ気味だ」
「早速ですが、これを」
人の話を聞いちゃいない。もう少し寄り添えよ、って言った所で態度が変わることはないので、黙ってメモを受け取る。
「仲間がいるかもしれないので気を付けるように」
「‥……」
「いつもの胃薬と、今日は疲労回復の漢方も出しておきます」
一応俺の話は聞いてはいたようだ。俺は山元から受け取ったメモに目をやる。
〈目的は男の始末と、持っているスマホの破壊。男の名前は布村彬。九月二十三日、調布飛行場から朝一の便に乗って大島へ。布村は次の便に乗ってくる。空港から東に三キロ離れた、草野球場隣の建設資材置き場跡地で待ち伏せろ〉
「覚えましたか」
「男の特徴は?」
「ウブロの時計を付けている」
「ウブロ?」
「‥……」
「それだけか?」
「左手に付けている」
俺は山元にメモを返した。仕事の作戦は、こうやって仲介者の山元からメモが渡され、伝えられる。そしてその場で内容を覚え、メモを返すことになっている。よって、この仕事には、ある程度の記憶力が必要となる。山元は割と簡潔に、いや、今回みたいに簡潔すぎるものばっかりなので、暗記があまり得意でない俺でも務まるのだが、中には毎度四百字詰め原稿用紙二枚分以上のメモを渡してくる仲介者もいるらしい。そんな仲介者を持つ殺し屋はたまったものではない、と思う。
山元の作戦は簡潔だが、必ずうまくいく。とにかく、先を読む能力が異常な位長けている。もう二十年付き合っているが、大きな狂いが生じたことは一度もない。寸分の狂いはたまにあるが、そこも山元の中では計算済みのようだ。命のやり取りをするこの仕事、俺が今現在生きていることで、山元の作戦の「精度」が証明できる。
当たり前だが、一つの仕事には、必ず一人以上の依頼者がいる。俺はそれが誰なのか知らされないし、殺す理由も知らされない。俺はただ、報酬のためだけに仕事をする。ただし、あまりに理不尽な仕事は、掟により御法度とされている。俺たちにも一応赤い血は通っているわけで、殺るのは少なくとも「悪いやつ」でなければならない。この、仕事が理不尽かどうかの調査も山本の仕事となっている。
掟がどうとか、この業界は江戸時代から何一つ変わっていない。もっとも、江戸時代の殺し屋なんて、小説の中でしか知らないが。ただ一つ、江戸時代から変わっているもの。それは、報酬の全額後払い制、だと思う。大方の察しはつくと思うが、俺と山元の関係は……残念ながら対等ではない。
「おはようございます。今日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくなっ」
今日は酒井に誘われ、ヒラメを釣りにきた。船に乗って釣りをする、いわゆる沖釣りというやつ。更にこの日は「仕立て船」という、仲間内での貸し切りだ。幹事さんは、先ほど挨拶を交わしたエモリさん。酒井の釣り仲間ということで、酒井の仲介により、俺は今ここにいる。「釣り仲間」ということにはなっているが、歳は十、下手したら二十近く離れているかもしれない。仲間というより、実際は我々二人の沖釣り、そして人生の大先輩。アラフォーの俺と酒井は、たいして若くもないにも関わらず、エモリさんからしたらクソガキ同然だ。率先して船への荷物運びを手伝う。
「いつも悪いね!」
「お構いなく!」
波で揺れる船へ荷物を積んだり下ろしたり。ほんの二、三メートル、階段三、四段の段差は、俺と酒井にはなんてことない作業なのだか、足腰が弱ってくる還暦前後となると、これが相当大変な作業なのだそうだ。よって、クソガキ二人は大変重宝され、最近俺はよくお誘いを受けるようになった。
「エラメさんおはようございます!」
「おう、かときんさんおはよう!」
他の釣り仲間が続々と到着し、幹事であるエモリさんに挨拶をしていく。エラメ、かときん。こんなブログネームを使った挨拶も、はじめは違和感だらけであったが、最近は大分慣れてきた。
説明は前後するが、今日集まった釣り仲間は、私と酒井以外の皆さん全員個人ブログを運営していて、ここでの繋がりを経て釣り仲間になったそうだ。要するに今日は「オフ会」ということになる。何故酒井がエモリさんと知り合いなのかは不明だが、言葉の端々から察するに、何やら二十代からの付き合いっぽい。長い付き合いの割には、ちょっとよそよそしい雰囲気はあるが、気心は通じる間柄のようだ。気心が通じる、そういえば、山元はいったいどんな趣味を持っているのだろう。ま、ヤツは十中八九無趣味だろうな。趣味以前に、まずメガネがダサい。
話は戻り「エラメ」。エモリさんは大のヒラメ釣り愛好家で、年間三十回近く出かける釣行のうち、十回以上はヒラメ釣りに出かけるそうだ。そのためヒラメの「ラメ」にエモリの頭文字「エ」をつけ、ブログネームとしている、と、俺は勝手に思っている。因みに「カトキン」は多分カトウさん、「SAYA」は、これも多分サヤマさん、「イカ仙人」は名前こそ分からないが、多分イカ釣りが好きな方、「るびー」さんは……不明だ。何故にひらがな?
ブログの面白い点は、日記のように、書き続けることで過去の自分に再会できることもさることながら、コメントや「イイネ」によって、リアルタイムにリアクションがわかることも大きいと思う。しかし、俺が思う最大の面白い点は、自分の名前を好き勝手に設定できること。我々日本人は、結婚、離婚、養子縁組以外、よっぽどのことがない限り、改名はできない。「名」については基本的にできず、「氏」も好き勝手にはつけられない。因みに我妻は旧姓渡辺で、俺との結婚を機に藁科(わらしな)に変わったが、「出席番号で、まさか渡辺より後ろにくる苗字になるなんて思いもしなかった」と不満そうだった。妻に「ブログでもやってみたら?」って、今度提案してみることにしよう。
そんな「オフ会」の主催者、エラメことエモリさん。年間釣行の殆どを仕立て船で、しかも幹事をこなしているのには恐れ入る。仲間の募集、船宿とのやり取り。ぬかりなく準備を万全にこなせる能力もさることながら、人望が厚いのだろう。釣り仲間を十人集める、って結構大変だ。そして、何よりこの人は見ていてマメである。「メール(ライン)奇数回の法則」を原則やらない俺には絶対無理な役目だ。
「ポイントにつきました。準備できた人からはじめてください」
港を出た船は、べた凪の海を真沖に走り、やがてスローダウン。船長のアナウンスで皆「待ってました!」とばかりに仕掛けを海に沈めた。
折角なので、ここでちょっとヒラメ釣りの説明をしよう。実はこう言ってはなんだが、俺はヒラメ釣りは得意だ。多分この船の中では、エモリさんの次にたくさん釣る自信がある。
ヒラメ釣りの特徴は、何といっても「生きたイワシ」をエサに使うこと。いわゆる「泳がせ釣り」という釣り方だ。この釣りの醍醐味は、獲物にエサを食わせることよりも、むしろ「アタリ」と呼ばれる、ヒラメがエサに興味を持ったところから始まる。
まずヒラメがエサのイワシに近づくと、エサのイワシが恐怖で暴れ出す。「前アタリ」というやつだ。ちょっとドキドキが始まる。恋愛で例えたら、好きな女の子に「おはようと」って言われた感覚だ。勿論、ここで竿を立ててしまってはお話しにならない。ヒラメにはまず、冷たい態度で接しなければならないのだ。釣り用語では、これを「ヒラメ四十」といい、「おはよう」といわれても、約四十秒間無視しなければならない。もどかしい、もどかしすぎる。せっかちなヒラメは「バイバイ!」って去ってしまうが、大抵は愛を育てながら、エサのイワシを少しずつ食べていく。ああ、少しずつ食べられたい。そして竿先の揺れは次第に大きくなっていく。ヒラメは口に違和感を覚えると、エサのイワシを吐き出してしまうので、ここからは特に微妙なやり取りが必要となる。無視といっても、少し位思わせぶりな態度も必要だ。更に大きくなっていくヒラメからの反応。相手の目がウルウルしだし、「落ちた」と思ったその瞬間、ようやくこちらから「おはよう」の一言を返し、しっかり俺の左腕を掴まれている、いや、ヒラメが針に掛かっていることを確認して初めて、竿を立て、リールを巻きはじめる。
そう、ヒラメ釣りは非常にゲーム性が高い釣り。沖釣り界の「恋愛趣味レーションゲーム」といっても過言ではないのだ。なので、この釣りでは皆、釣り座に座ることなく、常に竿を手に持ち、詩織ちゃんからのリアクションを必死に待っている。ただ一人を除いては。
「おう、ちゃんとやらないと釣れないっぺよ」
ほ~ら、早速船長から指導が入った。でも、こいつは全く動じることはない。竿をキーパー(竿受け)に固定したまま、じっと座って竿先を見つめている。
酒井のモットーは、「本来の三十パーセント以下の労力で、本来の七十パーセント以上の成果を得ること」なのだそうだ。因みに「三十パーセント、七十パーセント」の、数値設定の根拠は不明。ただし、実際見ていると、毎度「本来の二十五パーセントの労力で、本来の五十パーセント前後の成果」を得ているような気がするが。とにかく無駄に動かない、喋らない。動物で例えたら、生涯の殆どを動かず過ごすナマケモノだ。到底、俺の同業者とは思えない。
そう、彼もまた裏の顔を持っている。専門はナイフ。この男がナイフを使って仕事をする光景が全く想像できない。しかし、これには本人も違和感を覚えているらしく、「疲れる」と、最近愚痴を言いだした。先日、「もっと楽な手段を研究中」と言っていたが、これは企業秘密ということで教えてくれなかった。
「もう、大迷惑なんだけど」
妻が帰宅するなり……主語なし会話。でも、言わんとすることは大体わかる。これは確実に会社の愚痴だ。
「今日はどうした?」
「本社から自黒の薬剤師が移動してきて、元々いた若い男薬剤師と……」
全部書いたら、四百字詰め原稿用紙四、五枚になりそうなので、簡単にまとめる。内容を要約するとこうだ。
本社から、ちょっと自黒だけど、若くて美人の薬剤師が移動してきた。そして直ぐに元々いた津田という男薬剤師といい関係になったっぽい。女薬剤師は、ちょっとツンツンした性格で一緒に仕事をしづらいし、ツダ坊(津田)は、普段殆ど休まないのに、体調不良でずっと休んでいるし。このクソ忙しい時期、自黒女が来てからもう大変。はっきり言って大迷惑。
ということらしい。因みに妻の名前は小雪といい、色が白いことで、こう名付けられたそうだ。多分ではあるが、自黒以外のルックスは負けを認めたのだろう。そして年齢は大敗。今回、相手の「自黒」を強調することでマウントを取り、ストレスを発散したと思われる。
それにしても若いとはいえ、あの、どう見てもオタクみたいな風貌のツダ坊が美人と。俺は何度か、妻の送迎で薬局に行ったことはあるが、お世辞にも、あいつはモテるとは思えない。ましてや美人と。ま、俺には関係ないか。自黒の薬剤師には悪いが、今宵は悪役になってもらおう。
「そういえば、明日休みだよね?」
嫌な予感。
「朝は歩いていくけど、夜は雨予報だから車で迎えに来て!」
「う、うん」
(え、マジ?)
明日は仕事の実行日。早く終わらせないと。
調布飛行場からやや四角張った、斬鉄剣でスパッと切ったら食パンになりそうなドイツ製の小型飛行機に乗り込み、大島へ向かう。大島なんて遠いイメージであったが、実際は飛行機だと離陸から二十五分。思っていたよりもかなり近い。因みに船だと横浜から六時間かかるそうだ。そして飛行機からの景色は格別に素晴らしかった。ボーイングとかエアバスといったジェット機は、雲の上、いわゆる成層圏を飛ぶのに対し、このプロペラ機は、対流圏と呼ばれる雲の下を飛ぶ。しかも、翼が胴体の上に付いていて、どの席からも景色がよく見える。そして最も気に入った点は、通路を挟んで全席窓際の一列シートであること。これなら、この前新幹線で味わった、ぽってり奥方の隣になる心配がない。食パン、気に入った。
今日は九月二十三日。秋分の日は昼と夜の長さが等しくなる日。要するに、あの世とこの世が最も近くなる日ということだ。「仕事には丁度良い日」と勝手に解釈しよう。
仕事は計画通りに終わった。布村はしっかりと、左手に船窓みたいな丸い腕時計を付けていた。
「仕事は終わった。死体は建物の陰に隠した、処理しておいてくれ」
「わかりました」
しかし、いつも疑問に思うのだけど、いつもどうやって回収をしにくるんだろう。特に今回は離島だ。ま、俺には関係ないか。とりあえず、今日は妻のお迎えがあるし、最終便は乗り過ごすわけにはいかない。遅刻は論外だ。スマホの破壊は後にしよう。
この後……予期せぬ事態に。
「こんばんは。藁科はいますか?」
やれやれ。何とか間に合った。
「藁科さんの旦那さんですか?いつもお世話になっております、サブリーダーの磯辺と申します」
やや自黒で美人。本当だ。磯辺さん、というのか。全然ツンツンしていないじゃないか。
「奥様なら向かいのコンビニにいます」
「わかりました。行ってみます」
軽く会釈をすると、ポケットからスマホが落ちた。そして磯辺さんの顔が一瞬で変わった。
資材置き場から歩いて三十分。何とか最終便に間に合った。食パンこと、ドイツ製の十九人乗りのプロペラ機に乗り込む。この手の小型機の特徴は、コックピットと客室の間にドアがない。要するに、客席からパイロットが見えるのだ。迫力ある計器類も見えるので、航空オタクならドキドキワクワクする光景だと思うが……この便は明らかに雰囲気が怪しい。第一に、今日は祭日で便数が増えているにもかかわらず、乗客は俺一人。第二にパイロット二人がつけているサングラスが怪しすぎる。安物、とは言わないが、これではまるで「あぶない刑事」だ。おっと、こんなこと妻の前で言ったら、確実に突っ込まれるな。「歳がバレるわよ」って。
サングラスは、パイロットなら確実にこだわりたいアイテム。「なんでパイロットになろうと思った?」って聞くと、「カッコいいから」とは、実際に答えなくとも、本音はそう思っているに違いない。サングラスはその象徴の一つ、と俺は思う。飛行機は操縦できるとしても、恐らくこの二人はパイロットを普段の職業としてはいないだろう。
しか~し、今日の俺には「妻のお迎え」という最大のミッションが残されている。どんなに怪しくても、この最終便に乗らなくてはならない。
予想通り、パイロット二人は敵のようだ。恐らく、布村と何らか繋がりがあるのだろう。案の定、離陸後に右側の操縦席に座る、肩に金色の三本線が入った制服を着ているパイロットが、「抵抗しないように」と指示をしてきた。そして最後部の座席には、正規のパイロットと思われる二人が動かなくなっていた。「調布に着陸後は北側の駐機場へ」何やら、着陸後の話をしている。そして俺を縛ろうと、縄とガムテープを持って横にきた。
(ニヤリ)
「チュウオウコミューター 一〇六 テンマイルサウス スリーサウザン ウイズ インフォメーション ブラボー」
「チュウオウコミューター 一〇六 リポート ファイブマイル」
俺はパイロット、いや、敵二人始末し、左側のコックピットに座っている。そう、今この飛行機の機長は俺だ。というワケで、慣れない飛行機の操縦に集中。チェックリストはこれか。エアースピードチェック、ギアダウンスリーグリーンチェック……。
飛行場が遠くに見えてきた。あれがPAPI(進入角指示灯)か。調布は四つじゃなくて二つなんだな。白白、高い、ということか!スロットル少し絞って……赤赤!?低くなった?スロットル!あ、スピードが……。
「チュウオウコミューター一〇六 クリアツーランド」
無線どころじゃないっつーの!
「神、さ、ま」
「チュウオウコミューター一〇六 タクシーツーエプロン」
一ヶ月前、山元から事前に飛行機のフライトシュミレーターが渡されていた。あの「食パン」こと、ドイツ製の飛行機のデータと共に。そして、最小限の操縦技術、無線技術の習得も指示されていた。実際、飛行機の操縦なんて、最小限で片付けられるようなものではないが、俺の手に掛かれば最小限で充分だ。以前、ヘリのフライトシュミレーターを渡された時は、さすがに焦った。「着陸はいい、離陸と巡航だけ習得してくれ」
実際、着陸は必要なかったが、もし作戦に狂いが生じたらどうすんだよ。その点、着陸の方法が分かっている今回は、まだ気が楽だった。
「練習用の操縦桿が、実際とかなり違ったぞ。渡されたものはヘリ用とほぼ同じやつじゃないか」
「あまりにもスムーズじゃ、つまらないと思いまして。それに飛行機専用のものは結構高価なんです」
よく見れば、珍しくふざけたメガネのかけ方しやがって。気に入らない。
「そういう問題じゃないだろ。おかげでもっと高価な飛行機を壊す所だった」
無神論者の俺が、最後は神頼みしてしまった。今回は少し焦った。
「壊さなくて良かったですね」
おまえにしては、いいツッコミだな。
「飛行機から出たら『後は自力で何とかしろ』も、無責任だとは思わないか」
「簡単に逃げられたでしょう。この時、地上スタッフは何も知らないはずですから」
「そうかもしれないが」
「もう一つ、私に聞きたいことがあるのでは」
「ああ、ある」
よく分かっているじゃないか。そう、今回の最大の謎を、今ここで聞いておきたい。
「あの女は何物だ?」
第三章 鍼
「命を狙われます。一ヶ月間気を付けてください」
「命を狙われる?期間限定?」
「一ヶ月間です。逃げ切るか」
「逃げ切るか?」
「……」
おいおい、殺っちゃいけない相手なのか。まあいい。適当に逃げ切ってみせるさ。
「転職しようと思うの」
昨日、本社にツダ坊から退職願が送られてきたらしい。そして磯辺とかいう薬剤師も、昨日本社へ移動になったと、朝の朝礼で、エリア部長から説明があったらしい。
「何だかとても嫌な予感がするの」
妻の「嫌な予感」は当たっている。自黒の薬剤師は俺が殺った。本社へ移動、か。
「話は変わるが、友人からバイクを譲ってもらえることになった」
実際はバイク屋で買うのだが、本当のことを話したら「そんなお金どこから出たの?」なんてことになるのは目に見えている。自由になる金は一応それなりに持っているが、意外と使い方が難しいのだ。
「保険と税金はお小遣いでやりくりしてね」
「あ、やっぱり?」
「当たり前でしょ」
月々のお小遣いは二万円、年二回のボーナスのお小遣いは四万円。バイクに関する諸々の経費は、お小遣いでやりくり命令。実は俺が殺し屋だっていうこと、バレているんじゃないの?って、この時マジで思った。実際、バレていたら大変なことになるのだが。
丸いライト、黒いタンク、そして単気筒エンジン。昭和生まれの俺にふさわしいバイクはこうでなければならない。
上の子が十七歳。結婚して二年後にこの子が生まれたので、結婚生活は十九年ということになる。子供の歳プラス二年。結婚記念日に「何年目っけ?」ってなった時に、頼りになる公式だ。俺にとっての、バイクのブランクは、この「二」にあたる所が「一」。結婚して1年後、「危ないから」という妻の一言で手放した。
恐らく今の方が体力も筋力も、二十台の時よりも衰えているので、より危ないとは思うのだけど、妻は今、この点を全く問題にしていないらしい。今現在の判断基準は、俺の体よりも維持費ということになる。
「急いで結婚し、ゆっくり後悔せよ」ということわざを聞いたことがある。自分に当てはめて考えると、少なくとも後悔はしていない。ただ、他人事で考えると、何となく分かる気がしないでもない。考えた末に出した結論は、大事なのは距離感。今は十九年前と距離感が違うだけなのだ。
結婚。この単語をストレートに語るのは難しい。
かくして俺は、しっかり妻の許可を得た上で、十八年ぶりにバイクを手に入れた。パイク屋のスタッフに「十八年ブランクあるので心配なんだよ」って話したら、実は俺みたいな例が多いらしい。要は若い頃乗っていたけど、結婚や子育てで一旦手放し、子育てが落ち着いた四十代にまた乗り出す、と言ったパターン。「中年ライダーが今のバイクブームを支えていると言っても過言ではない」と熱弁していた。俺に文筆の才能があったら「バイクブームと結婚」なんていう論文が書けそうだと思った。
「フロントブレーキが甘いので見てほしい」
バイクを購入して一週間。ややブレーキが甘いと感じたので、購入したお店とは別のバイク屋に持って行った。
「フルード液交換した方がいいですね。あと、チェーンもやや伸びているので、交換をお勧めします。在庫はあるので、よろしければ一時間でやりますよ」
中古バイクの品揃えはほぼなし。修理やメンテナンス中心の小さなバイク店といった印象。バイクを購入した全国チェーンのバイク屋に比べたら、店内は狭くて暗く、「一見さんお断り」的な雰囲気があるが、決してそうではない。店主と思われる、やや色黒で割とハンサムな男の受け答えは、雨上がりの青空のように爽やかだった。
「お願いします」
「よく気付きましたね」
夜の港に行くと、酒井がワンカップを片手に、岸壁に並べた三本の竿を見つめていた。
「いかがですか?」
「いや、俺は車だからこれにしておく」
駐車場近くの自動販売機で買缶コーヒーをポケットからだした。
「背が高く、やせ型でやや色黒」
「丘(おか)。鍼屋(はりや)で間違いないと思います」
「鍼?尖ったあの鍼か?」
俺は無意識に目を数秒間閉じた。無論、深層心理がそうさせた。
「あなたもそろそろ転職した方がいいと思いますよ」
「鍼か?」
「一撃必殺。一瞬で決着がつきます」
「鍼は……やめておこう」
焼き鳥も食べられないような俺には、絶対に無理な転職先だな。
「そういえば、酒井も転職するとか言っていなかったっけ」
「そのうち教えますよ」
丘が俺のバイクをいじりだした。
「勘だ」
「まさか、俺が逆に監視されているとは」
「やるチャンスはいくらでもあったはずだが」
丘は首を二回振った。
「勘です」
気のせいか、丘はやや微笑んだように見えた。
「勘違いしないでください。『殺る必要はない』ということです」
「見極めるには、まだ二週間早いだろ」
「……」
今度は明らかに笑った。
「たった今、二週間分の情報を仕入れた所です」
丘は俺が殺った女と、何らかの繋がりがあったのだろう。恋人?元恋人?幼馴染?そしてあの時、あの女は何故俺を殺そうとした?あのスマホには何が?
「藁科さん、お願いがあります」
街を抜け、山道を行く。ハンドルを握る丘は顔色が悪いように見える。
「エサを撒いておきました」
車中では、全く言葉を発しなかった丘だが、車のエンジンを止めた所で、ようやく一言。目の前には巨大な工場がそびえていた。テレビのコマーシャルでお馴染みの製薬会社だ。そういえば、妻はこの子会社がチェーン展開している薬局で働いている。偶然か、いや、違う。
工場の裏手には古い小屋があり、不自然な扉が付いていた。
「ここから中に入ります」
扉は小さいが、目立たない、という訳でもない。むしろ、ピエロのようなイラストが描いてあり、目立つ。それは毒ガエルの如く「触ると危険」と、遠回しに言っているようにさえ思える。一番の特徴はドアノブ。位置が低すぎだ。そしてドアノブがあるにもかかわらず、スライド式。鍵はない。
「足元に気を溶けてください」
足元はぬかるんでいて、靴は既に泥だらけだ。中に入ると、目の前にはガスメーターや水道メーターらしきものがずらりと並んでいた。間を抜けていき、突き当たったら、カニ歩きで横に進んでいく。数メートル進むと丘は止まった。
「ここが入り口です」
丘がしゃがみ、足元にあるマンホールを持ち上げた。
「狭いので気を付けてください」
「腹が出ていたらアウトだな」
「ギリギリ大丈夫のようですね」
本当にギリギリだ。万歳をする格好でロープを掴み、下に降りていく。二十メートル位はあるだろうか、思ったより深い。そして広い空間に着いた。奥には明かりが見える。
薄明りから確認する限り……ここはまるで刑務所。しかも、相当な時代を感じる。錆びた鉄格子が並んでいるが、奥の明るい部屋の身、鉄格子が金属特有のソリッドな輝きを放っている。
「何なんだ、ここは?」
「わかりません。不自然な位、全く記録がありません。恐らく……この会社の歴史そのものでしょう」
この会社の歴史。俺や丘、ついでに酒井なんかとは比べ物にならない位の薄汚れた影がありそうだ。
「このルートは脱獄用だと思います」
「脱獄者はピエロの絵が上手のようだな」
「ここから中が見えます」
部屋の明かりが丘の顔を照らす。やや色黒で、顔立ちがはっきりしたイケメンだ。「もし妹がいたなら……かなりの美人だったに違いない」
できるだけ近くまで行き、部屋を覗く。すると、少し傾いたベッドに男が一人寝かされていた。
「ツダ坊!?」
ベルトで固定されている男は、間違いなくツダ坊だった。自主都合での退職。はじめからおかしいとは思っていたが。
「知合いですか」
「妻の同僚の薬剤師だ」
「馬鹿なやつだ」
「何があった?」
「ヤツは香のストーカーだ」
妻は恋仲だと思っていたようだが、ストーカーだったか。可哀そうだが、俺の頭の中のモヤモヤが晴れた。
「既に瀕死の状態に見えるが」
「ここは人体実験室。違法薬物の適正濃度を調べているのです」
「そういうことか」
「香は恋人をこの実験で殺され、これから現れるヤツを追っていました」
いつの間にか、丘の顔は怒りに震えていた。
「自分の手を汚して、体を売って」
「……」
「勘違いしないでください。私はあなたが間違ったことをしたとは思っていませんよ」
「香さんには相棒はいたか?」
「いません。正確に言えば、最近行方不明になった布村という男の相棒、いや、恋人のふりをしていました」
「そうか」
「屈辱だったと思います」
部屋の扉が開いた。そして、白衣を着た研究者らしき姿の人間がぞろぞろ入ってきた。
「!?」
心臓が止まりそうになった。
「やはり知っているのですね」
「全員知っている」
研究者らしきご一行は、「絶対権力者」と「盲目的に従う信者」といった構図に見える。俺が知っている、和気あいあいとした雰囲気は微塵もない。
「これから殺されるのか」
「そうです」
「何を撒いたんだ?」
「縛られている男の神経を一本切っておきました」
丘は自分のうなじを指さした。
「鍼で?」
丘はゆっくり頷いた。俺は一瞬、鳥肌が立った。
「どちらにしても、あのストーカーはもう助かりません。薬の効果を散々調べられ、そして殺されます」
中から声が聞こえる。
「こいつが例のストーカーか。まったく、馬鹿なやつだよ。俺の女にちょっかいを出すなんて」
丘は視線を下に向けた。俺もここから長々と続いた、男の聞くに堪えない卑猥な言動から、耳を塞ぎたくなった。
「気分が悪そうだが」
「山道で少々酔ってしまったようです」
「それは致命的だな」
「藁科さん、私はここから先へは行けません」
「分かった」
自黒の女、いや香さんのスマホには、本人にとって命に代えても知られたくない、屈辱的な内容が記録されていたのだろう。スマホの破壊指示……そういうことだったのか。
それとツダ坊、悪かったな。
家に帰ると、妻がビール片手に出迎えてくれた。
「転職が決まったの!」
「そうか、それは良かった」
第四章 毒
俺の本業は食品メーカーのサラリーマン。「わかっちゃいるけどやめられない」のサラリーマンだ。そして我が社はなんと、日本で一握りとされる東証一部上場企業に含まれているそうだ。俺にはどうでもいいことなのだけど、妻にとっては重要らしい。「結婚を決めた理由の一つ」と言っていた。気持ちは分かる。娘に好きな人ができ、もしそれが表の仕事が無職の「殺し屋」だと分かったら、俺は絶対反対だ。
そんな娘に胸を張って「パパはサラリーマンなんだぞ」って言えるよう、そろそろ引退したい所なのだが、この世界は「一身上の都合」で辞めることが、多分できない。というより、辞め方がよく分からない。どうしたものか。
「藁科さん、ご馳走様でした」
今日は職場の女性二人に誘われてしまった。実はこういう機会、俺は他の同年代社員よりも多い。自由になる金が同僚よりも圧倒的に多い、ということで、酔っぱらうと大盤振る舞いしてしまうことも理由の一つと言えるが、表の仕事も裏の仕事同様、真面目に働いている証拠だ信じている。
女性は良く見ている。仕事が出来るか否か、ではなく、人を。よく言われるが、俺は職場の女性陣から見て、他の男性社員とは違う、ミステリアスな一面があるそうだ。そういえばその昔、動物占いではユニコーン、動物じゃないじゃん。戦国武将占いでは千利休。茶人じゃん。寿司占いではあがり。寿司じゃないじゃん。「俺ってミステリアス~」って、勝手に思ったことがあったが、それとはまた違う意味でミステリアスなのだとか。理由は一つしかないこと位分かってはいるが……それでも、できれば「殺し屋」は辞めたいと思っている。
本日誘ってくれたのは、同じ職場で働く、渡辺夕子さんと飯島菜々美さん。二人とも正社員ではないが、仕事は俺の十倍はできる。渡辺さんなんて、我が職場に入ってきて二か月足らずなのだが、既に事務作業チームのリーダー的存在だ。お酒を一滴も飲めない点が、自分でも「残念な点」と言っているが、気配りもでき、話題も豊富。俺的には、ちょっと年上な所も相まって、公私ともに頼りになる存在だ。
片や飯島さんは、我が職場のマドンナというかクイーンというか天使というか。とにかく、こんな飲み会がバレた日には、職場、いや、会社の菜々美ファンから殺されてしまいそうなレベル。まず、彼女とラインでやり取りしているだけで、既に危険だ。そんな彼女の様子が……何やらおかしい。
「藁科さ~ん、飲み足りな~い」
「じゃ、私は帰るね。後はお二人で楽しんでね」
おいおい渡辺さん、一体どういうつもりだ?
「ウェ~イ!」
飯島さん……「うぇ~い」って何?
あれから一ヶ月が経った。結婚してこのかた、考えたこともなかったが、いや、ほんの少しは考えたことはあったが、何も準備することなくその時はやってきた。そして、未だに自分の中で、全く整理できず。なにこれ、なんなの?一言「モヤモヤ」。
よく眠れない、毎日寝不足だ。しょうがないから、山元に睡眠薬出してもらうも、それでも眠れない。眠くならずに、何故か半日前後の記憶喪失になってしまった。はっきり言って病気だ。
今年一年、漢字一字で表すとしたら、間違いなく「罪」。もっとも、俺の今までの人生、「罪」の一字どころでは済まされないのだが。まだ今年、三ヶ月近く残しているが、早くも決定。一体、この物語はどういう結末に向かうのだろうか。乞うご期待!
(いったい何を言っているんだ、俺は)
「罪もない人間を殺してしまった」
「どうしました?これまで数えきれない位、殺ってきたでしょう」
「それは正当防衛だ」
「今回もそうでしょう」
「突然だが、この仕事を辞めるにはどうしたらいい?」
「私にはそれを決める権限がありません」
「それじゃあ、次の仕事を最後にしたいのだが」
「ご家族は奥様とお子さん二人、でしたっけ?」
「脅しているのか」
「いえ、心配しているのです」
山元のパソコンのモニターに目をやる。
「釣りはやるのか?」
「いいえ」
権限がない、とはどういうことか。山元の先には、仕事の依頼者しかいないと思っていたのだが。更に別の仲介者、いや、更に俺の知らない親玉がいるのだろうか。それともただの「思わせ振り」か。いつもならば「俺には関係ない」でか片付けてしまうが、今日は気になって仕方がない。
「次の仕事はこの女です」
メモを受け取り、一通り目を通した。
「あまり気が進まないが」
「それでは頼みました」
「私で良かったんですか~」
「美味しい江戸前料理、お酒飲み放題。もう、飯島さんしか思い浮かばなくて」
「奥さんはダメだったんですか~」
表情がかなり意地悪になっている。痛い、痛すぎる一撃。
「飲めないんです」
只今、人間ドック前で禁酒中。なので、半分本当だ。超偶然だが。
「フフッ」
若干狼狽えながら至高のビールひと口。ビールには何も罪はないのだが、この瞬間だけは、目を背けた先の恵比寿様が歪んで見えてしまった。
前回の酒の席で、二次会で二人になった時に、どうやら俺は屋形船について熱弁をふるったらしい。「死ぬまでに一度乗りたい」そして誘ったらしい。
あの大罪の一件後、二人で屋形船。もう、危険な臭いしかしない。この場に及んで「タダで帰してしまっては逆に失礼」って思うのは、男として間違いなのだろうか。もう、なるようになれ!
そんな一世一代の大勝負の最中、俺の記憶は途絶えた。
「ここは?」
「お目覚めが早いわね」
俺は少し傾いたベッドの上で、体をベルトで固定されていた。
「最近、似たような場所を見た」
「あなただったのね、ネズミは」
「飯島さんはどこですか、渡辺さん」
少しハッとした表情を見せたが、すぐに冷静さを取り戻し、ゆっくり眼鏡とカツラを取った。
「どうして分かったの?」
「最近、AB型の考えていることが、少し分かるようになってきたんだ」
「よ、よくわかったわね、私の血液型」
「まあね」
「それではもう一度同じ質問。どうして分かったの?」
「何のこと?」
「毒入りの串焼きのことよ」
「そういえば、この前の飲み会、串焼き残したかもな」
「とぼけないで」
「とぼけてなんかいない」
「ま、いいです。これから藁科さんには、我が社の伝統儀式を体験してもらいます」
渡辺さんは、右手に注射器を持っていた。注射器は、俺にとっては串焼きよりも百倍嫌いな代物だ。咄嗟に逃げ出したい衝動にかられたが、少しだけ我慢。この際、色々と聞きたいことがあった。
「死ぬ前に教えてほしいことがある」
「いいわ、特別に話してあげる」
渡辺さんは要点をまとめ、わかりやすく簡潔に話してくれた。残念だ。仕事が出来る、素晴らしい女性だと思っていたのに。
「話は終わりよ。そろそろ始めるわ」
「これでも?」
俺は難なくベルトを外した。そして、一瞬で仕事を終えた。
「仕事を終えた。回収しておいてくれ」
串焼きに毒が入っていたことは……俺は気づいてはいなかった。串焼き、俺がこの世で最も嫌いな食べ物の一つ。危険な夜、だった。色々な意味で。
そして、気になる点一つ。この仕事の依頼はどこから?「渡辺夕子を気絶させろ」。
俺には関係ないこと、か。
「おはよう」
何といったらいいのか。
「ごめん、いきなり寝ちゃったんで、仕方なくここに運んだ」
飯島さんは、屋形船の仮眠室で眠っていた。渡辺さんが、そうしてもらうよう、屋形船のスタッフさんに頼んだらしい。要は「殺さなかった」ということだ。
「もうお昼?」
衣服を隈なくチェックしている。そしてそれを終えると、俺を見つめた。
「何もなかったの?」
はい、残念ながら。
第五章 悟り
「家族四人で旅行だなんて、久しぶりね。いつ以来かしら」
「百合(ゆり)は剣道、悠翔(はると)はテニスと、二人とも部活が忙しいみたいだし、正に奇跡だな」
つい最近までクソガキだと思っていた我が子二人は、いつのまにか高校二年生と中学一年生。あっという間に成長し、気づけば殆ど手がかからなくなった。
特に高校二年生の百合は、手間がかからなくなったどころか、家事やらなにやらの戦力としても活躍しはじめ、時には妻の友人のような存在にもなり、そっと小遣いを渡すと、俺の代わりに、浦安のテーマパークに連れ出してくれる。今の俺に言う資格があるのかどうか……ちょっと心が痛い所だが、妻と一緒に過ごす時間は大切だとは思うも、混雑が大嫌いな俺としては、この成長は非常に嬉しい。たっぷり遊んで、二人で俺の悪口を言い合って、日頃のストレスを発散してほしいと思う。
一方、中学一年生の悠翔は、俺に似て群れを好まない性格で、やや反抗期に入ってきた感がある。ただし、何故か家族旅行は大好きのようで、今回、家族四人の中で一番楽しみにしていたようだった。別に何をするわけでもない。滞在先のホテルの部屋で、いつもと同じくスマホでユーチューブを観ているだけなのだ。「わざわざ旅行にくる必要ないんじゃないの?」って言ってやると、「こういう気休めがいいんだよ」って返してきた。何も言い返せなかった。同時にこれを聞いた途端、俺は「クソガキ」と思っていた悠翔が、将来大成しそうな気がしてきた。
何だかんだ、二人の子供はいい方向に成長している。ひとえに妻のおかげだ。
「新しい職場はもう慣れたの?」
「お陰様でもうだいぶ慣れたわ。みんなとても良い人達だしね」
「それは良かった」
「でも、時給が下がっちゃったから、頑張って上げていかないと」
「我が家のクソガキ二人、まだまだ金食い虫だからな」
「あ~あ、宝くじ当たらないかな」
一応、悪い金なら一等当たった位あるぞ、「ジャンボ」ではなく「ミニ」だが。
思っただけで言葉にすることができず、小さな溜息が一つ出た。モヤモヤが晴れない。この旅行でこのモヤモヤは一層濃くなった。理由は、この俺には勿体なさすぎる平和な家族の中で、平然と過ごしていることだ。
夜の港に行くと、酒井がワンカップを片手に、岸壁に並べた二本の竿を見つめていた。
「いかがですか?」
「今日は貰うよ」
今日は珍しく休日出勤。仕事帰りに立ち寄った。
「何かあったのですね」
「罪のない人間を殺った」
「それは、我々にはよくあることでしょう」
山元に話した時と、ほぼ同じ回答が返ってきた。しかし、言葉の重さが違う。彼もまた、幾度か同じようなことを経験してきているはずだ。そう、確かによくあることなのだ。
ただ、今回は重かった。香さんの死は完全に俺のミス。正当防衛なんていう一言では済まされない。あの時、すぐにスマホを破壊しておけば防げたのだ。
「俺は、そろそろこの仕事を辞めようと思っている」
「方法は?」
「エモリさんを殺る」
酒井の顔に緊張が走った。少しの間、沈黙が続いた。酒井はどの程度、状況を理解したのだろうか。それとも、既に分かっているのか。
「興味津々です」
「お願いがある」
俺はポケットに入っていたコインロッカーの鍵を取り出し、酒井に渡した。
「俺にもしものことがあったら、これを妻に渡してくれないか」
酒井は軽く頷いた。俺の覚悟を全て受け取ってくれたと確信した。
「自分にもお手伝いをさせてください」
釣り座は、右側ミヨシ(前)から、酒井、俺、エモリと並んだ。恐らく、酒井以外は全員敵だと踏んでいる。
仕事を辞めたい旨の話を山元にしたら、すぐにエモリから、この誘いが来た。親玉?敵?エモリは山元と何かしらの繋がりがある。そして恐らく、二人の関係は良好ではないだろう。まあいい。そこは俺には関係ない。
釣り座は通常、仲間内恒例のくじ引きで決めることになっている。そこで、酒井に細工を二つ程頼んだ。その一つが、釣り座のくじ引き。釣り座の並びは、俺が決めた。
酒井も実は殺し屋を辞めたいと思っているようであった。そしてスリに転職したいと打ち明けてくれた。日本の法律にて、犯罪と呼ばれることからは離れないつもりらしい。ただし、ヤツのことだ。最低限、相手はしっかり選ぶだろう。
エラメことエモリはツダ坊を実験室で殺った張本人。違法薬物を扱う中心人物でもあることは、疑いの余地はない。渡辺さんが全て話した。そして忘れてはならない。この一件の最大の功労者は、香さんだということを。
一週間前に山元と会った時、診察室のパソコンに見慣れないアイコンがあった。エラメの「釣りブログ」のアイコンだ。山元は、自身の左側に座る俺に対し、画面右端上側に配置していた。そして俺の「釣りはやるのか?」の問いに対し、答えは「いいえ」
「おい、アイコンに気づけ」と、この時、聞こえない声で言ったに違いない。長い付き合いだ。それ位俺にはわかる。そして、これが最後の仕事。
そうだろ、山元。
エラメ。これは「ヒラメ」と「エモリ」を合わせたものじゃない。多少関係があるかもしれないが。エラメ=「エ」ン「ラ」イト「メ」ント=悟り。エラメは悟、重盛悟だ。
妻の働いていた、薬局の責任者欄にも同じ名前が書かれていた。初めはシゲモリだと思っていたが、そうじゃない。エモリだったんだ。重盛は妻の元上司、薬局のエリア部長。
薬局との繋がり、そして違法薬物との繋がり。百パーセントではないが、俺の頭の中で散らかっていたパズルのピースは、ほぼはまった。
あとは答え合わせだ。
第五章 鯛
あれからというもの、何を食べても美味しくない。「美味しいもの食べないなんて生きている価値ナシ」。こんな価値のない毎日、いつまで続くのだろう。
夕子さんは一ヶ月前に行方不明になり、そして藁科さんは先週海に投げ出された。死体はまだ回収されていないけど、さすがにあの藁科さんでも、十一月の海に投げ出されたら……。
でも、何故かどこかで生きている気がする。あいつ、何故か体がやたらと鍛えられていた。あれは尋常じゃない。それに、トラブルがあっても、樹海のように底知れない余裕があって、そしてちょっぴり神秘的な人だった。ご家族は……私に藁科一家を心配する権利は、ないわね。
十二月の港。思ったよりも寒くない。それでも、スキーに行く位たくさん着込んできた。スキーなんて、やったことないけどね。
体が震える。寒いわけじゃない。ものすごく緊張している。
「飯島さんですか?」
「あ、はい」
「おはようございます。酒井です。皆さんもう到着しています。紹介しますのでついて来てください」
「おはようございます。重盛(エモリ)と申します。皆からはブログネームのエラメと呼ばれていますが」
「おはようございます。今日は初めてですが、よろしくお願いいたします」
「簡単な釣りなので気楽に楽しんでください!酒井君が面倒見てくれるだろうし、おばちゃんも二人いるから安心して!」
「おばちゃんで~す!トイレに行きたくなったら声かけてね!前のトイレ、今日は勝手に女専用にしちゃってるから」
「心強いです。よろしくお願いします」
正直、酒井さんより心強いかも。
「藁科さんの件、大変なことになってしまって。今日は彼の遺言で集まってもらいました」
遺言?まだ正式に捜査を打ち切った訳ではないじゃない。何でそう決めつけるの?重盛とかいうおっさん、気に入らない。
今日は船を一艘貸し切って釣りをするとのこと。これを釣り業界では「仕立て船」というらしい。さっき遺言とか供養とか言っていたけど、まだ生きているかもしれないのに。私はまだ希望を捨ててはいないわ。
この集まり、酒井さんから誘われたの。突然目の前に現れ、「藁科さんの奥さまですか」って聞かれて、思わず「はいっ」って答えてしまった。そして説明されるがまま、「はいはい」言ってしまい、今日に至った。参加することを簡単に決めてしまったけど、相当危険な集まりだということは理解している。ひょっとしたら、私も藁科さんと同じ運命を辿ることになるかもしれない。
でも、じっとしてなんかいられない。だって、このままじっとしていたら……いつまで経ってもご飯がまずいままじゃない!
それにしても、釣り人って皆さん、お金持ちが多いのね。停っている車は高級車ばかり。軽自動車なんて私だけね。酒井さんの車だけ、ちょっとランクが落ちるかな。藁科さんと同じようなエコカーね。ちょっとだけ信用しても良さそうな気がしてきたわ。そういえば、藁科さんもサラリーマンにしては意外とお金に余裕があったような。ホント、あいつはいったい何者だったのだろう。目の前に現れたら、シュワシュワを飲みながら問いただしてやらないと。今度は私がおごってあげるから。
「それでは恒例のくじ引きをやります。あ、飯島さんは初めてなので、船長の前、そして両サイドは私と酒井君で努めます」
よかった。とりあえずエコカーの酒井さんが横にいれば少し安心。
「困ったことがあったら何でも言ってね」
よかった。おばちゃん、ではなくて、女性二人のうちの一人が、酒井さんを挟んだ、次の席になったみたい。船でおトイレ。重要よね。
「今日は来てくれてありがとうございます」
「いや、逆にありがとうございます。毎日ご飯がまずくて」
「え?」
「あ、いや、何だか居ても立ってもいられなくて」
しかし、何で私のマンションの前に現れたのだろう。住所調べるにしても、私は飯島だし。
「ごめんなさい、一つ訂正させてください。私、実は私にとっての藁科さんは、ただの職場の上司なんです」
「はい、知っています」
あいつ、話してないだろうな?
いや、今日は余計なことを考えるのはやめよう。もう、覚悟は決めたのだから。
「所で今日は何を釣るのですか?」
「そういえば、肝心なことを話していませんでしたね。今日はハナダイ、という魚を釣ります」
「タイ?」
「そう思ってもらってもいいと思います」
酒井さんがハナダイ釣りについて、詳しく説明してくれた。ハナダイは、見た目はタイにそっくりなんだけど、タイより大きくならず、警戒心も薄いとのこと。そのため、初心者でも簡単に釣れるらしい。要するに、ど素人の私には向いている釣り、っていうことね。
そして肝心の釣り方は、コマセカゴに「オキアミ」という、小さいエビをぎゅうぎゅうにならない程度に詰めて、更に、針にエサを付けて海に投入。コマセカゴが底に着いたら、二メートル位リールを巻いて、竿を振ってコマセ(オキアミ)を出し、また二メートル、要は仕掛けの長さ分巻いて、あとは待つだけ。しばらくして魚が掛からないようなら、これを繰り返し、掛かれば竿を「ギュン」と持ち上げて、しっかり針を掛けてやってリールを巻く、といった具合。
色々と細かいテクニックはあるようだけど、今年は豊漁のようで、適当にやっても簡単に釣れるみたい。
「今年は状況が良いので、簡単に釣れると思います。気楽にやってください」
「分かりました」
「後は実際にやりながら教えますよ」
「よろしくお願いします」
準備が整ったようで、船は港を出ていく。他の釣り船も一斉に岸壁を離れ、大海原に繰り出していった。
寒い。港に停泊していた時よりも数倍寒い。でも、船酔いはしていないみたい。屋形船でもしなかったし……ま、あの時は別の意味で酔っちゃったけど。
この船、よくみると可愛い。特に、ここにある小さくて丸い窓が最高に可愛い!そういえば藁科さん、「退職金で船の窓みたいな丸い腕時計買う」って言っていたような。酔っぱらっていてうる覚えなんだけど。多分この窓のことを言っていたのね。割と良いセンスしているじゃん。私も欲しいかも。
「おひとつどうです?」
「ありがとうございます。でも、今日は車なので」
「一本位なら、帰りまでに抜けますよ。藁科さんから聞きました。屋形船で泥酔されたとか」
「……」
あいつ、話しやがった。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
ワンカップだなんて……私、もう完全におっさんね。
「美味しい!」
体がポカポカしてきた。船で飲むお酒、ものすごく美味しい。
船は三十分程沖に向かって走った。酒井さんから頂いたお酒のおかげで、体が暖かい。できればもう一本飲みたかったけど、帰りの運転もあるしね。それに、今日は絶対に泥酔は避けないといけないし。
「それでは始めてください。水深は三十メートル。底から五~七メートルまで誘ってください」
船長の合図で、皆さん釣りを始めた。重盛さんは、早速タイ、ではなくてハナダイを釣った。すごい!
小さいタイことハナダイ。本当にマダイとそっくりね。と言いますか、私には全く区別がつかない。
「こうやって仕掛けを先に落として、最後にオキアミの入ったコマセカゴを落とすと、絡みづらいです」
「なるほど」
「今日は魚達がやる気満々なので、水深は気にせず、底に着いたら五、六回位リール巻いて、後は待っていれば大丈夫ですよ」
「やってみます」
すると竿先に異変。ギュンギュンギュン!
「掛かった!」
慌てず、ゆっくり巻いてください。
「あ、タイだ!」
「本命ハナダイです。おめでとうございます」
「やった~!しかも二匹も!」
「写真撮りましょうか?」
「あ、いや、それはやめておきます」
「今日はそれが賢明かもしれませんね」
そうね、私は藁科さんの不倫相手。今日は念のため控えるべきね。
周りでは手慣れた手つきで竿を振っている。いや、しゃくっている、と言った方がしっくりくるかも。お隣の方を除いては。
酒井さんはというと、仕掛けを海中に沈めると、竿を固定して微動だにせず。そして、竿先がギュンギュンしなると、電気式のリールのスイッチオン。まるで「ウォークマンを聞く猿」みたい。こんな表現、藁科さんに聞かれたら確実に突っ込まれちゃうな。「歳がバレるぞ」って。
でも、ちょっと大きいヤツが釣れたら、恐ろしい位手慣れた手つきで、エラを切って「血抜き」とかいうヤツをやっている。なんだろう、彼のナイフの扱い。この瞬間だけ「猿」じゃなくて「かまいたち」ね。
「飯島さんも大きいヤツ釣れたら血抜きしますよ。こうすると、刺身にして美味しく食べられるんです」
「頑張ります」
タイを刺身にするなんて、私には無理だけどね。多分塩焼きがせいぜいね。
酒井さんの丁寧な指導もあって、釣り自体は大分上達してきた。そして、いつの間にか、可愛い子ばかりだけど、数は十匹に到達。ひとつ、ふたつ、みっつ……ここのつ、と。いわゆる「つ抜け」というやつね。
そして周りを見渡すと、エモリさんは私の三倍、横着者の酒井さんでさえも、私の二倍以上は釣っている。何が大変って、釣った後に魚を針から外す作業。チョン、って掛かっていればまだいいのだけど、中には私みたいな食いしん坊さんがいて、針を飲み込んじゃっているの。こうなると大変!
でもね、そういう時は酒井さんを「チラッ」て見るの。すると、すぐに手伝いに来てくれるわ。フフフッ。男って可愛いわね。
ズドン!
「なになに!?」
「飯島さん、多分タイ、マダイの方です。ゆっくり慎重に巻いてください!」
返事ができない。重い。そして凄い引き!絶対大きい!絶対釣りたい!
酒井さんがタモアミ持って構えている。もうちょっと!
「祭りましたね」
え?祭り?
「私の糸と絡まってしまいました。気にしないでそのままゆっくり巻いてください」
どうやら、私のマダイちゃんが、重盛さんの竿の方まで泳いで行ってしまったみたい。
「デカい!二キロはあるよ!」
まだお魚が見えていないのに、船長が魚の大きさを教えてくれた。
「ちょっと巻くのを待って。ここの絡んでいる所を外すから」
重盛さんが絡んだ糸を外そうとして、海に身を乗り出す。丁度そのタイミングで、大きい波がザブン。
(ドン)
重盛さんがどんどん見えなくなっていく。ライフジャケットは……膨らまなかった。船長、酒井さん、そして皆さん。ただただ見つめているだけ。
(ドン)
ライフジャケットのボンベが抜かれている。
「答え合わせは……終わった」
船はだんだん遠ざかっていく。
「アンチョビピザ食べた~い」(回想)
あの時、何でアンチョビピサだったのだろう。一度、一緒に食べにいきたかったなぁ。
この場に及んで……俺は家族じゃなくて、菜々美をを思い出すとは。俺は死んで当然だ。
「後は任せたぞ」
「よくやった」
「このボンベはどうしますか」
「海に捨てろ」
「分かりました」
「ナイフ屋からの転職、大分板についてきたな」
「不可抗力を利用して、ちょっとだけ押してやる。楽でいいです」
「さすが元柔道家だな」
「ありがとうございます」
「藁科が死ねば、山元の地位はガタ落ちだろう」
「間違いないです」
「これで俺が業界ナンバーワンだ」
「おめでとうございます」
「家族が何か知っているかもしれない。藁科は、殺し屋にしては割と明るい性格だからな。後で殺っておけ」
「家族も危険ですが、もっと危険だと思われる女がいます」
港に着いた。何がどうなっているのか、全く分からない。でも、酒井さんが正義で、重盛さんが悪、であることは理解できる。私の正義、それは藁科さん。
酒井さんどころか、船長、そして皆さん。ここにいる全員が清々しい顔をしている。きっと、これで全てが終わったのね。
「お願いがあります」
「何でしょう?」
「この鍵を、藁科さんの奥様に届けてもらえないでしょうか」
「必ず」
酒井さんは、薄っすらと涙を浮かべているように見える。やめてよ、私まで泣いちゃいそうじゃない。
「彼は……藁科大希は、いったい何者ですか?」
「自分の、ただ一人の親友です」
クーラーボックスを開けると、可愛いハナダイ十匹と、大きい、船長推定二キロのマダイが一匹入っていた。酒井さんがしっかり取り込んで、私のクーラーボックスに入れておいてくれたみたい。
「オスですね」
「何で分かるんですか?」
「オデコが出っ張っているでしょ」
「ふ~ん、タイって目が小さいんですね」
「デカいオスは黒ずんでいるからそう見えるだけで……いや、確かに小さいですね」
目が小さいだなんて、ちょっと微笑ましい。
「刺身にすると美味しいですよ。より美味しく食べられるよう、神経締めをしておきます」
酒井さんはアイスピックのようなものを取り出し、タイの頭を刺そうとした。しかし、タイは力の限り抵抗する。
「やめてっ!」
「?」
「この子、先端恐怖症なんです」
「そういうことでしたか」
船長がケートラに乗り込み、帰っていった。皆さんも道具を片付け、帰っていった。
「それでは自分もこれで」
「はい」
涙が止まらない。やっぱり、生きていたんだね。
おごってあげることはできないけど……
かわりに美味しく食べてあげる。
二か月後。
「おはよう」
「では、私はこれで」
山元先生は部屋を出ていった。
一昨日、私の前に突然現れ、自分は医師で、藁科さんを保護している旨の説明を一方的にしてきた。そして間髪入れずに、自分にとって藁科さんが必要な人物だということ、そして私に「力を貸してほしい」ということを、なんの説明もなしに続けた。私は一言「分かった」と言ったわ。私がその解答に至るまで、多分三分もかかっていないわね。だって……死んだと思っていた藁科さんに、また会えるのだから。
「あなたは何者なの?」
山元先生は昨日、「目の前の男は藁科大希ではなく、鮎川春。そして今、彼は記憶喪失」とだけ私に伝えてくれた。
「本当に記憶はないの?」
「『本当に』とはどういうこと?記憶喪失って?」
「ヤマモト先生がそう仰っていました」
「……」
「詳しいことは追い追い話すわ」
私から話すことなんて、たいしてないのだけど。思わず知ったかぶりしちゃった。
「本当に生きていたのね。魚になっちゃったのかと思った」
「魚?」
丸一日以上、藁科さん、いやハルの寝顔を見つめていた。何だか、ひたすらうなされていたわね。可哀そうに。怖い夢でも見ていたのかしら。
今日、奇跡的に気づいたこと一つ。ハルって奥二重なのね。
〈了〉
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